石毛城跡
豊田家宗祖将基(赤須四郎)は、桓武天皇第五皇子葛原親王八代の後胤常陸大掾平重幹の第三子で、政幹が前九年の役(1051)に源頼義・義家(八幡太郎)父子に従軍し阿武隈川の先陣乗りの功を立て康平5年戦功により豊田・岡田・猿島の三郡を賜る。さらに後三年の役(1083)にも従軍、功により常陸多賀郡の地(現北茨城市)を賜り、孫政綱を拠らしめたと伝えられる。(現在北茨城市に豊田城跡あり) 豊田氏其の勢盛んなるとき、豊田三十三郷、下幸島十二郷、筑波郡西部を領有し、十一代基安は南常陸に侵攻し、弟基久を牛久に分家(南北朝争乱の頃)する等、常総野四隅を圧するものがあった。結城家は重臣多賀谷氏を下妻に配し小田・豊田の抑えとした。やがて戦国時代に突入、下克上・新興勢力の台頭あり、とみに勢力を増大した多賀谷氏は主家結城氏より独立を図り、豊田領侵略の機を窺う。 豊田氏は防衛上、先ず隣城手子丸(現豊里町)の菅谷氏と婚し東方の憂いを除き、多賀谷に対する備えとして十七代元豊は三男家基に、八幡太郎拝領の甲冑を与えて「これ、我家の家宝なり。今これを汝に伝う。袋畑は下妻の咽喉仏なり、この家宝と領地を死守せよ」と命じ、豊田領最北端の袋畑(現下妻市)に封じ、豊田本城の第一陣とした。 十九代政親は石毛城を築き、二男の次郎政重を石毛に分封し、第二陣とした。更に、第三陣を館出(石下高校付近)の地に配して侵攻に備えた。 豊田氏必死の防戦にもかかわらず、多賀谷の攻勢激しく、(※ 中文省略 )そんな中、天正3年(1575)九月十三日、勇将政重も石毛城中にて脳卒中の為、敢えない最後をとげ、戦国一期の花と散る。
石毛城は多賀谷氏一族の拠る処となったが、天正13年(1585)多賀谷家の内紛により、築城54年にして廃城になり、後顧の憂いを除くため焼却されたと言われている。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに多賀谷氏が西軍(石田方)に与するを以て翌年徳川家康にに改易追放され、石毛地方は徳川の天領となり、多賀谷氏の豊田・石毛領支配は27年にして終わる。 現在の八幡宮は、慶長20年(元和元年:1615)旧臣等字佐八幡宮を勧進し、城域に創祀したものと伝えられている。 豊田城へ行く途中、石毛町内の県道357号線沿いの八幡神社内にある石毛城跡に寄りましたが、石碑があるばかりでした。でも神社の社殿の左横の土手が遺構でしょうか。 |
| 石毛城跡 平成16年5月3日時点 | |
| ◇交通 | ・関東鉄道常総線石下駅下車10分 |
| 参考文献 | 現地城跡説明碑より |