相模岡崎城址

―― 三浦一族の守りし天下の要害の城 ――

無量寺の入口の城址看板
無量寺の入口の城址看板
 
城址の西500mにある岡崎四郎義実の墓
城址の西500mにある
岡崎四郎義実の墓
 岡崎四郎義実は、天永3年(1112)三浦大介義明の四男として三浦に生まれた。
 青年時代は義美もまた悪四郎と呼ばれる豪勇の将であった。
 (※ この時代の"悪"は大変強いという意味があった)

 相模岡崎城は平安時代の末、末弟岡崎四郎義実(1300年没)によって築かれた。
 岡崎義実は源頼朝に仕えた鎌倉幕府創立の功臣で、その嫡子与一義忠を岡崎城の西方眞田城においた。
 義実は治承4年(1180)六十九歳で、源頼朝の伊豆韮山の挙兵に加わり、石橋山合戦では十倍以上の相手と戦い、嫡男眞田与一義忠が討死したが、無事頼朝を守り立派な働きをした。
 以来、鎌倉幕府を開いた頼朝にとっては、なくてはならない重要な人物の一人として活躍した。
 鎌倉幕府成立後ほどなく義実は出家し、その後まもなく帰らぬ人となった。
墓地裏にある最高位の曲輪跡
墓地裏にある最高位の曲輪跡
無量寺の入口そばの城址碑
無量寺の入口そばの城址碑
 家督を継いだ実忠は一門の和田義盛の乱に加担し討死したために岡崎氏は滅んだ。

 明応3年(1494)三浦義同(道寸)は、養父三浦時高を滅ぼして子義意を三浦の新井城へおき、自らは相模岡崎の城を取り立てて工を加え居城とした。
 周囲には西海地土腐をはじめとする湿地がめぐり、南は断崖で「岡崎の城と申すは、昔頼朝の御時、三浦大介の弟、岡崎四郎義実が住みし城とぞ聞えし三浦の一門数年住みし処、要害きびしく支度せり」(小田原記)とあるように天下の要害であった。

 永正9年(1512)8月伊勢新九郎長氏(北条早雲)は、伊豆相模両国の兵を集めて岡崎城に猛攻を加え、遂にこれを攻め落とした。
 三浦義同は弟道春の拠る厨子小坪の住吉城にのがれ、更に三浦の新井城に籠もり一族と共に滅んだ。
墓地裏の2つめの曲輪
墓地裏の2つめの曲輪
無量寺本殿前の城址碑
無量寺本殿前の城址碑
 その後は北条氏の持ち城となったと思われるが、廃された年代は詳らではない。

 本丸跡に建つ無量寺境内に城址碑が2つあるだけだと思いきや、墓地の裏手に二つの郭をはじめ、周辺の空堀など、遺構はよく残されていてます。

 空掘や大山を見ながら城址より西に500mのところに岡崎四郎義実の墓(岡崎城創築)もよく整備されてはいます。

  岡崎城址                            平成18年12月30日時点  
◇交通・小田急小田原線伊勢原駅南口よりバス・ふじみ野行き岡崎農協前下車徒歩4分
・小田急小田原線伊勢原駅南口よりバス・平塚駅北口行き (伊勢原団地経由)にて
                               城所入口下車、西ヘ700メ−トル
・伊勢原駅南口より徒歩35分
◇お問合せ伊勢原市商工観光振興課   TEL:0453-94-4711

参考文献現地解説板

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