大宝城跡

―― 沼に囲まれた台地を利用して造築された城 ――

本丸跡に建つ大宝八幡神社の鳥居と表門
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本丸跡に建つ
大宝八幡神社の鳥居と表門
大宝八幡神社の南側鳥居とそばの土塁
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大宝八幡神社の南側鳥居と
そばの土塁
 大宝城は、平安時代から南北朝時代にかけて、西、北及び東の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三辺断崖に面した要害の地であった。

 大宝城は、貞永元年(1232)下野の小山氏一族の下妻長政が拠って以来、下妻氏代々の居城であった。
 東西288m、南北578mで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦め手とした。

 下妻氏4代政泰は、興国2年(1341)、護良親王の子興良親王を奉じ、小田城よりここに移ってきた春日中将顕国らと共に城に籠り、関城に拠る関宗祐や北畠親房と呼応して、北朝方の高師冬の大軍を迎え討ったが、2年余りの激しい攻防戦ののち、食料不足と城内不和のため、籠城軍は力尽きて敗れ、興国4年(1343)11月12日落城、政泰は自刃して果てた。

大宝八幡神社裏(北側)の土塁
大宝八幡神社裏(北側)の土塁
大宝八幡神社の南側鳥居横の南側土塁
大宝八幡神社の
南側鳥居横の土塁

 落城の際、春日顕国は足利勢から逃れ、興国5年散兵を集めて大宝城を攻め、奪い返した。しかし、北朝方の反撃にあって顕国は捕らえられ、斬殺されその首は京都にさらされた。

 城跡は、大宝八幡神社の境内一帯で、大手門跡や土塁・空堀の一部が残り、国の史跡に指定されている。 なお、関城は、大宝城と大宝沼を隔てて北方約2.5km程ののところにあり、籠城戦時には互いに船で連絡を取り合っていた。
 関城跡は現存しているが、大宝沼は今は水田に変わっている。

[ 国の史跡指定区域(大宝城跡、関城跡)の現地案内図 (22kB) ]
旧本丸内の城跡碑
旧本丸内の城跡碑
大宝八幡神社南側鳥居そばの<br>旧大手跡
大宝八幡神社南側鳥居そばの
旧大手跡

 粗っぽい地図では、判りにくい場所ですが、判ってみると大宝小学校の近くの八幡神社の鳥居がある小高い丘の所に遺構がありました。
 台地の上から見ると田植えの準備中の水田が一体に広がっていました。

 大宝八幡神社の北側に下りると右手沿いには100m程の高さ3mの立派な土塁が残っています。
 また八幡神社の南側鳥居横の南側土塁は結構長く、立派です。
 大手門跡の広場は結構広く、跡地に三吉稲荷参道と称する杭の並ぶ参道がいわくありげです。

 大宝城跡                         平成18年5月1日時点  
◇交通・関東鉄道常総線大宝駅から東約1.5km(徒歩15分)
◇問い合わせ下妻市役所商工観光課   TEL:0296-43-2111(代)
  〒304-8501 茨城県下妻市本城町2丁目22番地

参考文献 ・現地解説板
・「郷土資料事典−観光と旅−県別シリーズ・茨城県」(人文社)

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