富田城跡(別名・月山、月山富田城)
―― 山陰・山陽十一州に覇と称えた尼子氏拠点の城 ――
城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の三つの入口がある。周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠くことの出来ない立地条件を具備しており、中国地方における中世城郭の代表的な城跡として重要視されている。 伝承によれば、保元、平治の頃平氏の部将平景清によって築城されたと言われる。 文治元年(1185)佐々木義晴が出雲・隠岐の守護として入城以来、それ以後塩冶氏、佐々木氏、南北朝時代には山名氏、室町時代には京極氏と歴代の出雲守護が居城したと言われているが、確実な資料はない。 十五世紀末ごろから守護京極氏の一族尼子氏が守護代として居城したが、次第に力をつけ、文明16年(1484)尼子経久の時、守護京極政経に反抗したかどで富田城から追放されたが、同18年1月これを奪回、戦国大名として独立した。
永禄9年(1566)毛利氏の軍門に降ったあと、山中鹿之助らが尼子氏再興をめざし、永禄12年(1569)、尼子勝久を擁して富田城奪還を図ったが敗れ、尼子氏の滅亡は決定的となった。 尼子氏の滅亡後は、毛利氏の家臣天野隆重、毛利元就の五男元秋などが居城したが、関ヶ原の合戦後、堀尾吉晴が入城した。 しかし、太平の世となって山城の戦略的価値が薄れたこと、城下町を形成するに適当でなかったことなどから、慶長16年(1611)吉晴は松江城に移り、城は廃城となったが、それまでの四百二十七年に及ぶ間軍政上の一大拠点であった。
山中御殿は、月山正面の中腹に位置している。正面のお子守口、右側の塩谷口、左側の菅谷口と三つの入口が交差する所で、周囲に堅固な外郭がめぐり、富田城にとっては軍事、政治上需要な位置に存在している。 昭和55〜56年の発掘調査によって、十六世紀後半期の備前、伊万里、志野焼の陶磁器をはじめ、中国製陶磁、宋銭、装飾金具、硯等が出土しており、掘立柱建物跡2棟、溜桝状石積施設2、溝状遺構、方形土壙等の遺構が検出された。 | ||||||
月山の山頂部には、最後の砦として本丸、二の丸、三の丸という曲輪が造られ、三の丸はその入り口にあたる重要な曲輪でした。 発掘調査により段状の石垣と、崩れ落ちた石材が確認され、戦時に石垣の段状を多くの兵が道路として利用したり、敵を待ち構えたりするために段状の石垣を積んでいたのではないかと考えられます。 また、わざと曲げられた入口道路も、敵の侵入を困難にするための工夫でした。このように戦国時代の築城には城を守るための工夫が随所にみられます。 | ||||||
山麓から山腹にかけての遺構と山頂部の遺構ととにかく凄いです。さすが難航不落といわれた尼子氏の本城ですは戦国時代の屈指の要害です。 山腹の大手門とその両脇に石垣に始まり、そして西側の大石垣、山中御殿の両口の虎口、櫓台など遺構が一杯です。 そして山頂部の七曲の登城道を登ると、西の袖平、三の丸、二の丸、本丸が連郭式に配置され、特に二の丸の周りを囲む石垣や、本丸との間の深い掘切は見ものです。 当然ながら、二の丸、本丸からの下界の広瀬町街の見晴らしも最高です。 |
| 安来市立歴史資料館(月山富田城跡) ( ⇒ 平成16年10月1日 広瀬町は安来市、伯太町と合併しました。) 平成16年8月8日時点 | |
| ◇交通 |
・JR山陰本線安来駅から、広瀬町行きバスで約25分、広瀬病院前下車徒歩約10分 または、広瀬行き観光ループバスで約50分、月山入り口下車 |
| ◇開館時間 | 9:30〜17:00 |
| ◇休館日 | 毎週水曜日、年末年始(12月29日〜1月3日) |
| ◇入館料 | 大人:200円、大学生・高校生:100円、中学生・小学生:30円 |
| ◇お問合せ |
・安来市立歴史資料館 TEL:0854-32-2767 (島根県安来市広瀬町町帳752) ・安来市役所 地域振興部 観光特産課 TEL:0854-23-3340 http://www.city.yasugi.shimane.jp/kanko/ |
| 参考文献 | ・現地で入手のパンフレット(広瀬町史跡ガイドマップ)、及び、解説板 ・「郷土資料事典−観光と旅−県別シリーズ・鳥取県」(人文社) |