―― 宍道湖に臨む、実戦重視の天守が残る城 ――
| 【 平成8年(1996)の 松江城へ】 | ||||||||||||||
松江城は、全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣である。 天守閣の大きさ(平面規模)では2番目、高さ(約30m)では3番目、古さでは6番目である。 豊臣秀吉、徳川家康に仕え、明智光秀討伐戦や関ヶ原の合戦などで武功をあってた堀尾茂助吉晴は、慶長5年(1600)出雲・隠岐両国二十三万五千石の太守として広瀬の富田城に入城した。 しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ、大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下町を形成しなければならなかったことなどの理由から、この極楽寺山(亀田山ともいう)に城地を移した。 築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし、慶長16年(1611)に一応完成をみた。
標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ六ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多聞がめぐっている。 天守閣は、本丸の東北隅に築かれ、望楼様式を加えた複合天守で、外観5層、内部6層である。 壁の大部分は、白壁でなく、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、実戦本位で安定感のある無骨な体裁に、桃山風初期の荘重雄大な手法(千鳥破風、華頭窓、鬼瓦、附櫓、牛蒡積み等)をみることができる。 木彫り青銅張りの鯱は、日本現存の木造のものでは最大で高さ2.08mであり、入口から向かって左が雄の鯱は鱗があらく、右が雌。 二ノ丸は本丸の南側に一段低く隣接し、御書院や御広間などがあった。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。 城山の南には、三ノ丸(今の県庁付近)があり、藩主の御殿があった。 石垣用の石材は、松江市東部の大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され、堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。 城主は堀尾忠晴、京極忠高の後、徳川家康の孫にあたる松平出羽守直政が信州松本から移封され、以来、松平氏10代234年間出雲十八万六千石を領した。 明治8年(1875)、城内の建物は全部とりこわされたが天守閣だけは有志の奔走によって保存され、昭和25年(1950)〜30年(1955)の解体修理を経て現在に至っている。
◆櫓3棟復元 明治8年(1875)に取り壊わされた二ノ丸櫓3基と土塀が、古写真や発掘調査結果をもとに、平成13年4月に約125年ぶりに復元された。 太鼓櫓(木造、一重櫓、入母屋造、本瓦葺、延床面積70.459u)は、内部に太鼓が置かれ、時を告げる役目を担っていた。 中櫓(木造、一重櫓、入母屋造、本瓦葺、延床面積69.833u)は、大手虎口を見下ろす場所に位置し、大手を監視する。 南櫓(木造、二重櫓、入母屋造、本瓦葺、延床面積105.2u)は、三ノ丸が一望され、さらに城下南東方向までを含めた監視が役割であった。 ◆地階と井戸 地階(穴蔵の間)は、龍城用生活物資の貯蔵倉庫である。
◆石落し 2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落しで、石垣に近づく敵に石を落とすようになっている。 外部からは発見しにくいように構造物を利用した石落しである。 ◆桐の階段 板の厚さ約10センチメートル、階段の幅1.6メートルで1階から4階の各階の間に設けてある。 階段を引上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない特殊なものである。
柱は、肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が作られている。この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、領主・堀尾茂助吉晴の苦心の作である。 ◆天狗の間より宍道湖を臨む 松江城の特色の一つは、6階望楼からの眺望の美しさにある。下の写真は南側からの眺望である。西・北・東側からもそれぞれの特徴のある松江が眺望できる。 | ||||||||||||||
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