週刊現代「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた

高沢皓司(ノンフィクション作家)


平成十一年 八月二一日号
麻原彰晃被告の側近は「北朝鮮潜入工作員」だった

平成十一年 八月二八日号
潜入工作員と「よど号犯」はスペイン・マドリッドで繋がった

平成十一年 九月 四日号
金正日総書記直筆の「日本破壊工作」指令書の全貌

平成十一年 九月十八日号
故金日成の「毒ガス兵器」研究と麻原彰晃のテロ実行

平成十一年 九月二五日号
「潜入工作員」Aが全ての疑惑に答えた

平成十一年 十月 二日号
もう一人の「潜入工作員」は林郁夫の右腕だった

平成十一年 十月 九日号
国松長官狙撃事件と「よど号」犯・田中義三

平成十一年 十月十六日号
麻原彰晃の右腕・早川紀代秀と北朝鮮の「闇の関係」

平成十一年 十月二三日号
「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編

平成十一年 十月三十日号
「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 中編

平成十一年十一月 六日号
「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 後編


週刊現代 平成十一年八月二十一日号 「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第一回

麻原彰晃被告の側近は「北朝鮮潜入工作員」だった

 オウム真理教と北朝鮮の間に密接な関係があるのではないか、という疑惑は根強くあった。この疑惑は、ある意味で真実であり、ある意味で間違っていた。というのも、オウムは秘かに潜入した北の工作員によって、利用されていた可能性が高いからだ。事件の根底からの見直しさえ迫られる衝撃のレポート!


「よど号」田宮高麿の証言

「筋がちがう・・・・・・」

 そのひとことを聞いたとき、私は自分の耳を疑った。オウム真理教の一連の衝撃的なテロ事件の背景に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が絡んでいるのではないか、とする噂は事件当時からいくつもあった。そのことを北朝鮮にいた「よど号」ハイジャック・グループのリーダー、田宮高麿(故人)にぶつけてみたのである。

「どこかで『よど号』も、今回の事件に絡んでいるのではないのか?」と。

 田宮は、

「一連のオウムの事件にわれわれが関係しているのではないかという噂もあるようだが、関係などない」と答えたあと、ポツリ、と冒頭のような一言をつけ加えたのである。

 その衝撃的な言葉を聞いたのは、一九九五年六月。サリン事件をはじめとする一連のオウム事件から二ヶ月近く経ったときのことだった。場所は北朝鮮の首都・ピョンヤンにある「よど号」グループ事務所の一室でのことである。

 田宮の言葉は、ふたつの「真実」を伝えていた。


 ひとつは、われわれはオウム事件に関与していないという釈明、もうひとつは、関与したのはわれわれではない、という肯定的な意味あいである。

 北朝鮮の工作組織にはいくつかの指揮系統(筋)がある。田宮は「(われわれの指揮系統とは)筋がちがう」ということを言っていたのである。

 しかし、田宮の衝撃的な一言は、私のなかに重く錨を下ろしたように残りつづけたが、その言葉の落ち着き先はなかなか見つからなかった。

 ところが、最近になって不思議なことに気がついた。私は昨年「よど号」のハイジャッカーたちの嘘と海外での秘密工作を暴いた『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』という本を書いたが、この本に反論する政治的なパンフレットが北朝鮮で出版されている。

 執筆しているのは、当然のように「よど号」グループのメンバーたちだが、奇妙なことにそのパンフレットのなかでたびたび言及されているのが「よど号」=北朝鮮と、オウムは無関係であるという主張なのである。

 不思議なことは、私がその本のなかでオウム教団と北朝鮮の類似についてふれているのは、五百頁を超えるその本のなかで、たったの一行なのである。過剰といえば、あまりにも過剰な反応と言わざるを得なかった。


 私は、あらためてオウム真理教と北朝鮮の類似に考えをめぐらさざるを得なかった。そして、一連の事件と「よど号」グループとの関係についても、である。

 オウム真理教の一連の事件の背景には、たしかに北朝鮮の影が何度も見え隠れしていた。

 教団幹部・早川紀代秀「建設省」長官に、数次にわたる訪朝歴があるのではないか、あるいはグルと呼ばれた教団の教祖・麻原彰晃(松本智津夫)の出自(実際、渡韓して調査にあたったマスコミもあった)、教団と北朝鮮の間での覚醒剤取引疑惑、統一教会との関係、教団大幹部だった村井秀夫「科学技術省」長官刺殺事件の実行犯・徐裕行の北朝鮮人脈と背後関係、そして国松孝次警察庁長官狙撃事件。荒川区の事件現場にはなぜか、北朝鮮人民軍のバッジが落ちていた・・・・・・。

 しかし、いずれもオウム真理教と北朝鮮を直接結びつけるには、これといった裏付けに欠けていた。「疑惑」の領域を出ることはできなかったのである。

 だが一連の事件から四年を経たいま、われわれ取材班はこの「疑惑」の核心に迫る、決定的なキーマンがいたことを突きとめた。


村井に重用されて、武器製造に携わった

 この人物は日本人ながら、北朝鮮と極めて深い関係を持っている。そして、一連の事件が起こる数年前にオウムの出家信者となり、幹部にのぼりつめていた。そして、麻原ら幹部が逮捕された後、なぜかオウムを脱会していたのだ。

 オウムと北朝鮮の関係について、これまでわれわれは大きな勘違いをしていたのではないか。

 つまり、オウムと北朝鮮はもともと密接な関係にあったのではなく、北から潜入した工作員によって、オウムがうまく利用されていたふしがあるのである。そしてこの「北の工作員」の一人こそが、われわれが突きとめたA(四十六歳)という男なのだ。

 オウムが北朝鮮に利用されていたとしても、もちろん麻原以下オウム幹部が犯した凶悪犯罪が免責されるわけではない。

 だが、一連の事件の中でも特に深い謎が残ったままの村井幹部刺殺事件、国松警察庁長官狙撃事件などについては、根底から事件の本質を見直さなければならないかもしれない。

 私と取材班は、これまでに日本国内はもちろん、ヨーロッパ、アメリカヘも飛んで取材を進めてきた。A本人にも接触している。その中でわれわれは、驚くべき事実に遭遇したのである。


 Aがオウム真理教に出会ったのは一九八〇年代の末、海外でだった。Aは東京に住んでいるが、当時は一時的に旅行関係の仕事をしていたこともあり、度々ヨーロッパヘの渡航歴があった。

 しばらくしてAはオウムに入信する。八九年(平成元年)十二月のことである。しかしAは、入信後もそのころ滞在していたスペインに留まっている。

 Aがモスクワ経由で日本に帰国するのは九二年(平成四年)五月、九三年にはオウム「科学技術省」で活動しているところが捜査当局にも確認されている。

 翌、九四年(平成六年)二月五日に出家、出家後はオウム「科学技術省」で活動していた。最初は第八サティアンで総務の仕事を担当したり、ヘッドギアの基盤をつくる仕事をしていたらしいが、村井幹部の声がかりで、山梨県富沢町にあった「清流精舎」と教団内では呼ばれていた施設に移っている。

 オウムはこの施設で、ソ連をはじめ旧共産圏の軍隊で広く使われた「カラシニコフ(AK74)」型自動小銃等を密造していたと見られ、銃身内に旋条と呼ばれる溝を彫る「ブローチ盤」など特殊な工作機械を備えていた。

 つまり、サリンを作っていた第七サティアンと並んで、教団武装化の最重要拠点の一つだったわけである。


 Aは、この重要拠点へと選抜され、同年の九月には「沙長」という、いわば中堅幹部の地位へと昇格している。

「清流精舎」での活動内容についてはこんな証言がある。

「清流精舎では当時、自動小銃以外にもいろいろな装置の部品づくりも行われていましたが、最大の目標はやはり自動小銃。千丁を目標に、工作機械十台と百名近いサマナ(出家信徒)とが投入され、尊師の肝入りで作業が進められていました。

Aは設計図、人、機械とその全体の管理を任されていたのです。この仕事はかつて、古株の信徒が歴任してきたものの、誰一人として長く続かず、Aが抜擢されて、初めて落ち着き、作業もスムーズに進展するようになったのです。

Aは人・物・時間等の管理能力に優れており、その点は省のトップの村井からも大いに評価されていました。尊師の覚えもめでたく、尊師の側にいることを許された幹部でした」(元信者)。

 つまり、Aは武器製造の担当責任者として高い能力を発揮し、その評価は教団内で著しく高かったのである。


チュチェ思想国際研究所に所属

 しかし、Aはサリン事件をはじめとする一連の事件のあと、突然、オウムを脱会する。周辺の友人には、

「サリンを作っているなんて、まったく知らなかった。あんなひどいことをする宗教だとは知らなかった。もうオウムとは訣別した。自分がオウムに入信したのは、人を助ける宗教だと思ったからだ」

と語っていた。実家の両親も、そのあたりの事情をこう語っている。

「オウムに強制捜査が入って、やっと目が覚めたんです。出先で新聞や雑誌を読んでいるうちに、自分の間違いに気がついたようです。脱会したい、と言ったら、力ずくでも引き止められるのが分かっているから、本部の引き出しに脱会届を入れて、そっと抜け出してきたそうです。カネもなかったので、離婚した妻に電語をして喫茶店で待ち合わせ、カネを受け取って実家に帰ってきました」

 九五年の七月二十二日の夜だった、という。ここには、純粋な宗教心からオウムに入信したが、一連の事件で目を覚まし、自発的に脱会した、というストーリーが描かれている。

 しかし、Aには当時のオウム真理教の仲間や信者たちが誰も知らない秘められた経歴があったのである。それは、私を驚かせるに十分なことがらだった。


 Aがオウムに入信する直前の数年間の詳細は不明である。なぜなら彼は日本にはいなかったからである。しかし、いま判明している彼の経歴だけでも、十分に驚くに価するだろう。

 なんと彼の前歴は、チュチェ思想国際研究所の事務局員だったのである。

 チュチェ思想国際研究所といえば、北朝鮮の指導的思想である「チュチェ(主体)思想」の宣布と、金日成主義の国際的なネットワークづくりを任務としている組織である。いわば、金日成主義者、チュチェ思想信奉者のあいだでも、一種のエリートであると言わねばならない。

 金日成主義のエリートと新興宗教集団・オウム真理教との組み合わせは、本来、水と油のようなものであるはずなのだ。なぜなら、北朝鮮の国家思想は、宗教をアヘンとして否定し、害毒を流すものとして規定していたはずだからである。

 そのチュチェ思想のエリートたる国際研究所のメンバーだった人物が、身分を隠すようにしてオウム教団に入っていた、というのは穏やかではない。

 なぜなら、ふつう、チュチェ思想国際研究所のメンバーといえば、思想的に堅固で、金日成に対する忠誠心を持ち、優秀な理論活動をなしたものでなければならないからである。


 また、諸外国の金日成主義者やチュチェ思想研究団体の横の連絡を任務とするため、いくつかの外国語にも堪能でなければならない。

 どのような苦境にあっても金日成首領を讃え、その思想を宣布し忠誠を尽くすものでなければならない。

 しかも、金日成主義者の常として、自らの思想を相手に理論的に説明するのではなく、知らず知らずのうちに誘導する技術を持っていなければならない。


北朝鮮へも度々渡航していた

 Aの経歴をたどってみると、いくつかの新しい事実が分かってきた。

 Aは京都の大学に在学中に、このチュチェ思想と出会っている。大学在学中にチュチエ思想研究会(チュチェ研)に参加、和歌山方面でオルグ活動にも当たっていた。

「学生運動というよりは、チュチェ研の活動を熱心にやっていたはずですよ。チュチェ研が和歌山に支部をつくるというので、組織から指示されて和歌山にオルグに行っていた」(当時を知る知人)。

 八〇年にはチュチェ研のメンバーとして訪朝、約一ヶ月、北朝鮮に滞在している。


 この訪朝は、現在判明しているものだけで八二年四月まで数度にわたり、そのうち長い時には約三ヶ月間にもおよんでいる。

 さらに、それ以降もモスクワを経由してたびたび長期間の海外渡航をくり返していた。これまでに判明しているだけでも、次のような渡航歴が明らかになっている。

1980年6月26日〜7月23日、北朝鮮に渡航
1982年4月1日、キム・イルソン研究会として訪朝
1986年8月、モスクワ経由で出国
1987年2月、モスクワ経由で帰国
1987年3月、モスクワ経由で出国
1987年8月、モスクワ経由で帰国
1987年9月、モスクワ経由で出国
1989年8月4日、スペインから帰国
同月23日、スペインに出国

 その他、この時期に限ってもロンドンヘの出国、帰国、マドリード、モスクワヘの出国、帰国がくり返されている。この時期はまだ旅行関係の仕事は始めておらず、きわめて不審な渡航歴と言わざるを得ないのである。

 さらに八〇年代中期からは、たびたびスペインでの足跡が確認されている。


 当時、スペィンには北朝鮮の工作拠点や「よど号」グループの活動拠点があったことを考えあわせると、直接の北朝鮮渡航ではなくても疑惑はふくれ上がる。

 また、Aが最初に活動していたチュチェ思想研究会(尾上健一主宰)は、日本の金日成主義者たちの組織で、その組織はきわめて不定型であり謎の組織とも呼ばれているが、日教組や保母、看護婦などの職場にも活動をひろげ、小中学校の教諭を中心に日本教職員チュチェ思想研究会などの組織も擁している。

 この研究会の主要メンバーであった複数の女性活動家が、現在は北朝鮮で「よど号」グループの「妻」として相変わらず北朝鮮賛美のプロパガンダ活動を行ってもいる。

 実際、Aの元「妻」(四十六歳)は、このチュチェ思想研究会の幹部活動家のひとりで「よど号」の「妻」のひとり金子恵美子とも親密な関係にあったことがわかっている。

 ではAは、なぜオウムに入信していたのか。いろいろな背後関係が判明してくると、Aの語っているように素朴な宗教心からこの新興宗教教団に入信したのだとは、どうも考えにくい。


 Aのオウム潜入は、北朝鮮の意志によるものではなかったのか? どうしても、この疑惑が浮かび上がってくるのである。

 Aのオウム入信は、偽装入信だったのであろうか? なんのために?


対日撹乱工作の予行演習か

 北朝鮮には、金日成主義の用語でいう「領導芸術」という、人をうまく誘導していく技術がある。相手にそれと悟られることなく、人を動かしていく技術、一種のマインド・コントロールの技術と言いかえてもよい。

 もし、Aがこの技術をもって、潜入したオウム教団のなかで何人かの中心的人物を誘導していったのだとすれば、それだけで単純に解けるオウムの闇と謎がひとつだけは確実にある。

 オウム真理教の一連の事件がおこり、オウムの名前が社会的にも知名度を高め、教団内部の事情がテレビや週刊誌のマスコミで紹介されるようになって、いちばんの驚きは、私の場合、それがあまりにも北朝鮮の思想、発想、機構、組織と似ているということだった。


 他人をポアする(殺す)ことも、その人間を救済することなのだとする、あまりにも超主観的なオウム真理教の発想も、北朝鮮が日本人を「拉致」することは結局、その対象となった人間を「地上の楽園」たる北朝鮮に連れてきてやるのだから、いずれ相手からは感謝されるに違いない、という発想と酷似していたし「尊師」という絶対中央集権の制度も、北朝鮮のそれと似ていた。

 ものの考え方だけではない。事件の直前にオウム信者がよく口にしていた「米軍がオウム施設を狙ってサリンを散布している」という言い方のなかにも「米帝憎し」とする北朝鮮的発想が入り混じっていた。

 そもそも「サリン」という言葉にしてからそうだった。

 事件が起こってからにわかに「サリン」という言葉はふつうの言葉のように一般の人に語られるようになったが、それまで「サリン」という言葉は一般の人には馴染みのないものだった。

 たったひとつの例外、金日成主義者たちをのぞいては、である。

 なぜなら金日成主義者たちの必読文献であり数十巻からなる『金日成著作集』には、この言葉がたびたび登場し、金日成自身がサリン研究を呼びかけてすらいたからである。


 では、教団内部に潜入した工作員(これはAひとりとは限らない)は、そこで何をしようとしていたのだろうか。どのような政治目的があって、秘密の潜入活動をなしていたのだろうか。

 これを理解するためには、北朝鮮の対日工作の現状と目的を考えてみる必要がある。

 北朝鮮にとってもっとも有意義な対日工作の内容は、じつは日本撹乱工作なのである。朝鮮有事を考えたときに、その後方基地に位置づけられている日本で、種々の機能を麻痺させることは軍事的にも北朝鮮を非常に有利にする。

 北朝鮮にいる「よど号」グループが「日本革命」の名のもとに工作活動をになわされているのも、内実はこの攪乱工作であった。それが、北朝鮮の意志であり、狙いであった。

 オウムの場合もそのためにこそ、徹底して「領導」され、誘導され、利用され尽くしたとも言えるのではないだろうか。サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば一種の予行演習でもあり得たのである。

 Aはこれら一連のオウム事件のあと、ひそやかに教団内部から姿を消した。


 素朴な宗教心からオウムに入信して、一連の事件のあと、自らその宗教に不信を抱き教団を去った、とするストーリーは、じつは、ひとつの工作実践が完了したあとの撤退、というふうには読み替えられないだろうか。

 Aは、オウムを脱会後、すぐさま海外への頻繁な渡航を再開している。北朝鮮との接触をはかった可能性もないとはいえない。あらたな活動が再開されたとも言えるのである。

 そしてさらに取材をすすめると、北朝鮮とAのさらに驚くべき接点が見つかった。

■ 取材協力/時任兼作、今若孝夫(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年八月二十八日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第二回

潜入工作員と「よど号犯」はスペイン・マドリッドで繋がった

 自らの思想信条を隠してオウム真理教に潜入し、幹部信者にまでなっていた工作員A。彼は、一連の事件で他の幹部が逮捕された直後にオウムを脱会すると、すぐさまスペイン・マドリッドヘと飛んでいた。そこは、ヨーロッパにおける北朝鮮の工作拠点がある街だった・・・・・・ 渾身のスクープ・レポート第二弾。


スペインヘの度々の渡航歴

 オウム真理教と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)工作組織の接点、この謎を解く重要な鍵を握る人物がいた。

 その男A(四十六歳)は、かつて日本の金日成思想信奉者の組織である「チュチェ思想研究会」でオルグ活動に従事し、のちに北朝鮮の呼びかけで各国に創設された国際組織「チュチェ思想国際研究所」(尾上健一事務局長)の局員をもつとめていた。

 金日成主義者としてはいわば、ある種のエリートとも言えるだろう。たびたびの長期にわたる北朝鮮への渡航歴もある。

 そのAが、それまでの主義主張、思想的立場とまるでつながりのないオウム真理教に突然「入信」するのは八九年の十二月。当時、長期滞在していたスペインからの在家入信だった。

 そして、取材をすすめると、Aのこのスペイン滞在自体が「チュチェ思想国際研究所」の任務とも密接に関係していたのである。

 だとすれば、Aのオウム「入信」の動機を、単純に宗教心からだけと理解するのは、どうしても無理があるようだ。


 ここで、私はあらためて金日成主義者たちの特徴的な活動のスタイルについて、注意を促しておかねばならない。

 つまり、彼らの工作活動はつねに自分の思想信条を表に出さず、秘密裏に誘導していくといか形で行なわれるのが常である、ということをである。この方法を政治的に体系化したものを北朝鮮では「領導芸術」と呼んでいることは、前回もふれた。

 この工作方法のもっとも分かりやすく具体的な(そして未熟な)例は、北朝鮮に亡命した「よど号」のハイジャッカーたちによる、ヨーロッパの日本人留学生「拉致」事件に見てとることができる。

 もちろん、彼らの「日本人獲得工作」(拉致工作)の実態は、詳細に検証すればするほど、ただの「騙し」による誘導としか思えないのだが。

 Aがオウムに「入信」した八九年末という時期は、今から振り返ってみれば、ちょうど「オウム真理教」という新興宗教教団が急激に内部変質しはじめた時期にあたっている。

 オウム真理教はこの時期から、なぜか急激に教団の非合法武装化を推し進めつつ、教祖麻原彰晃(松本智津夫)の選挙への出馬など、にわかに政治色を強めていた。麻原が「日本転覆」的な発言をし始めたのも、この頃だった。


 Aは九二年五月、長期のスペイン滞在を切り上げ「入信」後二年半を経て日本に帰国した。帰国後、しばらくしてオウム「科学技術省」で活動をはじめ、九四年二月には出家。

 山梨県上九一色村のサティアンに入ってからは、村井秀夫「科学技術省」長官のもとで、自動小銃の部品など武器製造の本格的な活動をはじめている。そして時期を同じくして、教団は外国からの兵器購入や軍事訓練に乗り出す。

 こうしてみると、Aの日本への帰国と突然の宗旨替えも、何らかの極秘指令を受けてのものだった可能性が高いのである。

 ここでAの渡航歴をあらためて検証する。

 八〇年六月の北朝鮮への出国を皮切りに、八〇年代前半にAは北朝鮮への渡航を何回か重ねている。

 八〇年代の中期からは、モスクワヘの出国、帰国がたびたびくり返されているが、ここで注意を促しておきたいのは、モスクワからは北朝鮮・ピョンヤンヘの朝鮮民航直行便(あるいはハバロフスク経由便)が飛んでおり、北京経由と同じく北朝鮮入国の、もっとも普通のルートであることである。

 さらに興味深いのは、この時期からAのスペインヘの渡航も、何度かくり返されはじめていることだ。


 このスペイン行には、やはりチュチェ思想研究会の幹部活動家だったAの元妻(四十六歳)が同行していることもあった。

 Aの頻繁な海外渡航は「入信」して帰国する'92年以後も何度かくり返されているのだが、九四年二月に出家してからの約一年半のあいだは、ピタリと止まる。

 しかし、サリン事件をはじめとする一連のオウム真理教テロ事件ののち、突然、才ウムを脱会(九五年七月二十二日)して、おおよそ一ヵ月後には、Aの頻繁な海外渡航がふたたび再開されている。

 この手際の良さは感嘆に価する。そして、もっとも頻繁に渡航をくり返していたのが、またもやスペインだった。


 中南米工作と日本人拉致工作の拠点

 では、なぜ、スペインなのか? ピョンヤン〜モスクワ〜マドリッドと、これらの都市の名前がひとつながりのものとして連ねられたとき、私には明らかに一本の見えざる糸が見えてきたように思えた。

 この都市の名前の連なりは、まさに北朝鮮工作組織の見えざる間のルートと明白に重なるのである。


 これらの都市に、モスクワからの中継地としてコペンハーゲンあるいはウィーンを加えれば、その見えざる糸はさらに完壁なものになる。

 そして、じつはこのルートは、かつて「よど号」犯の「妻」たちが、ヨーロッパで日本人留学生拉致工作のために、頻繁に北朝鮮とのあいだを往復していたルートと同じものだった。

 マドリッドは、北朝鮮の工作活動の拠点として二つの側面をもっている。

 ひとつは、対中南米工作の拠点である。「よど号」犯の「妻」たちが、頻繁にピョンヤンとマドリッドとの間を往来し、マドリッドでスペイン語学校に熱心に通っていた理由もじつはそこにあった。

 私は『宿命─「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社)のなかで、彼らのヨーロッパでの工作活動の一端を明らかにしたが、その本の書かれざる一章は、じつはこの彼らによる中南米工作であったのである。

 もうひとつが、日本人拉致の舞台としての側面だ。そして「妻」たちの活動と呼応するように、ちょうど八〇年代の初頭から「よど号」犯たちも、彼らの活動拠点をマドリッドに作っていた。


 北朝鮮にとって重要な意味をもつ工作拠点都市マドリッドに「チュチェ思想国際研究所」局員だったAが頻繁に往来し、さらに数年にわたる長期滞留をつづけていた。これは偶然のこととは思われない。

 そしてAはスペイン現地でオウムに「入信」し、突然、そこでの長期滞留を打ち切り日本に帰国した。スペインでは何があったのか? 何が計画されていたのか?

 いくつかの疑惑と謎がマドリッドという街で交錯し、そこに収斂されていくように見える。

 オウムによる一連のテロ事件が引き起こされてから、一時期マスコミの取材はロシアとオウム教団の関係に集中していた。

 そのロシアとの関係もまだ全貌が明らかにされたとは言えないのだが、オウム真理教と北朝鮮のかかわりの発端は、じつはマドリッドから始まっていたのではなかったのか?

 マドリッドの街には、その謎を解く鍵が、隠されているように思える。私と取材班は、その答えを求めてスペインの首都・マドリッドに飛んだ。



 国立語学学校スペイン語学科に在籍

 アムステルダム経由のマドリッド便は、夜遅くにバハラス空港に着陸した。夏のマドリッドは夜半を過ぎてもまだ夕焼けが残っている。

 エコノミークラスの狭い座席に、十数時間身体を押し込められていた私は、疲労困憊の体だったが、滞在日数の余裕はあまりない日その夜のうちにこなしておかねばならない取材の予定があった。

 この日からはじまる数日間、私たちはこの異国の地で、がむしゃらな取材活動を繰り広げた。もっとも私にとってマドリッドの取材と調査は、初めてではなかった。

 北朝鮮の「よど号」グループによる「マドリッド作戦」(日本人獲得工作)の実態解明のために、以前にもこの街を飛び回ったことがある。その時の調査で、私はこのマドリッドの街に張りめぐらされた、北朝鮮工作組織の影を色濃く感じとっていた。

 八〇年の初頭「よど号」犯の「妻」たちがここで繰り広げていた留学生拉致事件の確かな痕跡も見つけ出していた。この街から、八〇年代前半、複数の日本人留学生と旅行者が、彼女たちの手によって北朝鮮に「拉致」されている。


 そのひとり、札幌市出身のIさん(当時二十二歳)は「よど号」犯の「妻」たちに八十年四月、東欧旅行に誘われ、そのまま消息を絶った。熊本市出身の語学留学生Mさん(当時二十七歳)も、同様に彼女たちの手によって北朝鮮に連れ去られ、消息は不明のままだ。

 この留学生失踪事件から八年後、そのIさん本人からの手紙が突然、札幌市の実家に届き「事情があって北朝鮮で暮らしている」と書かれていた。当時は、マドリッドと北朝鮮のつながりなど誰一人として想像だにできないものだった。

 しかし、その手紙の内容から、はじめてMさんや、八三年夏にコペンハーゲンから失踪していた、ロンドンの語学学校留学生だった有本恵子さん(当時二十三歳)の消息が判明した。これらが、いわゆる「欧州留学生拉致事件」である。

「よど号」犯の「妻」たちは当時、マドリッドの下町の安いオスタル(ペンション・ホテル)や観光名所を舞台に、若い日本人青年を北朝鮮に連れていく工作活動を行っていた。

 このとき彼女たちはマドリッドでアパートを契約し、工作活動の拠点としていた。さらに語学学校などに在籍し、日本人留学生に親しく声をかけるチャンスを狙ってもいた。


 また八八年五月、日本国内潜入中に逮捕された「よど号」犯のひとり、最年少メンバーだった柴田泰弘(四十六歳)が、日本潜入中に他人名義の偽造パスポートを使用してたびたび渡航していたのもマドリッドだった。

 表向きは貿易業務の活動とされていたが、実際にこのマドリッドでは「よど号」犯の他のメンパーを含む北朝鮮関係者と接触(北朝鮮の工作組織の用語では《接線》とよばれる)していた疑いが濃い。

 そして問題の男Aは、このマドリッドで長期滞在のかたわら、国立語学学校スペイン語学科に籍を置いていた。

 すでにスペイン語のかなり堪能なAが、さらに語学に磨きをかけようとしていたことには理由がある。

 国際的なチュチェ思想の連絡ネットワークを任務とする「チュチェ思想国際研究所」の役割としては、中南米圏とのネットワーク作りと連絡体制の強化のために、スペイン語の熟練は必要不可欠な課題だったからである。

 そもそもAがスペイン語を学ぶきっかけは、チュチェ思想研究会の活動をしていた当時「チュチェ思想国際研究所」発足にあたって、主宰者・尾上健一事務局長の指示を受けてのものだった、と言われている。


 Aの国内でのスペイン語学習にあたっては「研究所」から研修資金が提供されていたともいう。

「中南米には多くのチュチェ思想研究団体や、北朝鮮と友好的な国が多数存在しています。
 チュチェ思想国際研究所の役割としては、それらの友好国や研究団体との連絡のために、スペイン語は必要不可欠でした。
 尾上事務局長は当時、さかんにスペイン語の学習をチュチェ研のメンバーにもすすめていましたからね」(チュチェ研関係者)

 Aのスペイン長期滞在は、このことからも組織的な活動の一環だったことがわかる。


 非常に印象の薄い人物だった

 そして、さらに興味深い証言があらわれた。そのチュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長とAは、ある時期から意見が合わず、Aは同研究所をやめていたというのである。

「尾上健一事務局長と意見が合わずに研究所をやめていった人間は結構多いんです。
 尾上さんはこういうことを言うと怒るかもしれないが、極めて教条主義的な面があり、その点では反発する人も多かったのではないですか。彼は一種の独裁者でしたから」(同研究所をやめた関係者)


 今回の取材のなかで、私たちは何度も尾上事務局長の言い分も聞くべく連絡を取ったが、現在にいたるまで取材には応じてもらえていない。

 ところでAが、そうした何らかの事情で「チュチェ思想国際研究所」をやめていたのだとすれば、以後のAの活動について新しい可能性が浮上してくる。すなわち、ある時期からAと北朝鮮の関係は、もっとダイレクトな深い関係になったのではないか、という疑惑である。

 実際、チュチェ研でチュチェ思想の洗礼を受け、やがてそこにあきたらなくなって、より深い活動に入っていく例もこれまでにいくつかあるし、現在「よど号」犯の「妻」として北朝鮮にいる何人かの女性たちも、同じ道を歩んだと言えるからである。

 また、チュチェ思想を捨てたわけではなく、チュチェ研から離れた人問には、より工作組織に近いところからオルグの声がかけられることも、過去に例がある。

 私たちはマドリッド滞在中のAの足跡を追いつづけた。

 マドリッド市内の国立語学学校には九一年六月から約一年間、スペイン語学科第三課程に在籍していた。さらに私たちは、当時のAを知る知人の案内で、マドリッド滞留中のAのアパートも訪ねた。


 闘牛場に近い雑多な町並みの一角、マンションふうな建物の最上階だった。

「Aはある人の紹介があってここに住むようになったのではなかったかな。訪ねて来る人もあまりなかったようだ。
 ちょうど湾岸戦争が起きた頃だったか、ガイドの仕事をしているようなことだったが、観光客もあんまり来なくて仕事がなかなかできない、とこぼしていた。それで日本に帰ったようだ」(当時のAを知る同じアパートの住人)

 マドリッドのAは、近隣の人々のあいだで印象が非常に薄い。日本人社会とのつき合いもあまりなかったようだ。

「すすんで人づき合いをする人ではなく、印象が薄いが、旅行社のガイドのようなことはやっていたようだ。妻子を抱えてよく生活ができているな、と思っていた」(マドリッド在住の日本人)

 そんなAが、実は度々訪れていた場所があった。マドリッドの下町にあるOというオスタルである。

 このオスタルは、かつて私が「よど号」犯の「妻」たちによる「日本人獲得工作」の実態を調査していたとき、何度も足を運んで話を聞かせてもらいたいと、訪ねたところである。


 私が調べたいと思っていた八〇年代前半のころとはオーナーも変わり、当時の宿帳を見たいと、現在の経営者に頼んでも、

「以前のオーナーの許可がなければ見せられない。以前のオーナーがどこにいるのかは知らない」

と、取り合ってくれなかった苦い経験のあるオスタルである。

「よど号」犯と北朝鮮関係者の宿泊場所として頻繁に利用されていたのではないか、ど私が推測していたところでもある。

 そのオスタルでAの足跡が出た。彼は前述のアパートを借りる前、このOに滞在していたという複数の証言が得られたのだ。A本人もそのオスタルを宿泊先にしていたことを認めている。

 当時の事情を知る、前オーナーを探し出すことが、どうしても必要になった。だが、マドリッドで得られた手がかりは、その前オーナーがどうやらマドリッドからアメリカにわたり、レストランをやっているらしい、ということしかなかった。



 柴田泰弘と同じホテルに宿泊

 取材班の記者がアメリカに飛んだ。ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスとしらみ潰しにあたった記者は、ようやく前オーナーK氏(六十歳)にたどり着いたのである。

 そして、そこで聞くことのできた証言は驚くべき内容だった。

「よど号の犯人が泊まったことがあった。うちに泊まったことがある学生から、手紙がきて、このまえそちらのホテルに泊まっていた人が、日本で逮捕されて新聞に載っている、といって新聞の切り抜きを送ってきた。

 うちに泊まっていた太ったおじさんが、実は『よど号』事件の犯人の一人、柴田泰弘だった。そのとき、その学生は犯人とは知らず一緒に、こ飯を食べたりしていた。

 その犯人は自分は『ロバの耳』だったか、そんな名前の輸入雑貨店を経営していると言っていた。彼が逮捕されてしぱらくして日本の警察からも連絡が入り、犯人が一緒に行動していた人は誰かとか、いろいろ聞かれた。


 彼は四〜五日泊まっていたが、私が『娘が結婚するからホテルを売らなきゃいけない』と話すと、親切に、『知り合いに買ってくれる人がいるかもしれないから、聞いてみる』と言ってくれた。

 逮捕直前、日本からきた手紙のなかにも『誰か知人で、スペインのホテルを継いてくれる人がいるかもしれないので紹介する』と書いてあった。

 ええ、今のオーナーとは親しくさせてもらっていますよ。なぜ、私の連絡先を知らないなんて言ったんでしょうか。ホテルを譲ったのは九一年の七月でしたね」

 オスタルOは、やはり実際に「よど号」のハイジャッカーたちが利用していた場所だった。そのオスタルで、柴田とAの足跡がなぜか繋がったのである。

 そして驚くべきことに、この「よど号」グループの存在は、オウム事件の謎を解くうえで、重要な鍵を握っていたのだ。

(文中敬称略・以下次号)
■取材協力 今若孝夫、時任兼作(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年九月四日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第三回

金正日総書記直筆の「日本破壊工作」指令書の全貌

 一連の「テロ事件」の謎を解くカギはすべてここに隠されていた! 松本サリン事件の被害者の遺族が拉致、脅迫される事件が起きたばかりだが、このサリン事件をはじめとする「オウム・テロ」は、すべて、一通の指令書から始まっていた!? 北朝鮮で「親筆指令」と呼ばれる、この最高機密文書には、日本破壊・攪乱工作の指示が詳細に記されていた。驚情のスクープ第三弾!


八二年のピョンヤンから始まった

 一九九五年三月二十日、日本の首都・東京の中枢部で引き起こされた地下鉄サリン事件。刻々と報道される現場からのテレビ中継の映像を見ながら、私は一種、名状しがたい不安と動揺に見舞われていた。

 いま、目の前に繰り広げられているこの光景は、なんなのか? 誰がなんのために? 私の不安には、ある根拠があった。そして、次第に事件をめぐる事情が明らかになってくるにつれて、私はその不安がひとつの方向に向かって形を取りはじめてくるのを感じていた。

 一度は「闇」から「闇」に潰え去った、秘められた幻のクーデター計画(日本破壊・攪乱工作)が、ふたたびはっきりと像を結びはじめるのを感じ取っていたのである。その発見は、私を戦傑させた。

 この地下鉄サリン事件をはじめとする一連のオウム真理教テロ事件には、まだ数多くの謎が残されている。いまでもすべての事件が解明されたとは言えず、未解決のままになっているものも多い。

 そして、その謎を解く鍵のひとつは、じつは一九七〇年に「よど号」で北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡ったハイジャッカーたちが握っていたのである。


 幻の日本攪乱工作は、じつは一九八二年の北朝鮮・ピョンヤンから始まっていた。私は、そのことについてここでようやく、新しい証言をはじめなければならないだろう。

 その年、一九八二年五月六日「よど号」のハイジャッカーたちは「親愛なる指導者同志」金正日から、直接に、ある極秘指令をうけていた。その内容は、まさに「日本破壊・攪乱工作」であり、北朝鮮では「親筆指令」と呼ばれる金正日自筆の署名のある、最高機密指令だった。

 そして、その内容こそが、いま眼前で繰り広げられているオウム真理教の一連のテロ事件と、そっくりそのまま重なるものだったのである。私は一連のオウム真理教による事件の報道を聞きながら「これは、あの対日攪乱工作の形を変えた出現だ」と考えざるを得なかった。

 すべては、あの「よど号」グループに発せられた「親筆指令」から始まった、と考えられるのである。オウム真理教による一連の事件が続発していた頃、私はたびたび北朝鮮への渡航をくり返していた。「よど号」グループとピョンヤンで会うために、である。


 当時の私には、彼ら「よど号」のハイジャッカーたちが、一九六〇年代の学生運動の高揚のなかで、北朝鮮に渡ったまま帰国もままならない政治的遭難者と見えていた。彼らの帰国と、発言の場を国内で持たせるために、私は進んで支援者の一人となった。

 しかし、私は彼らの発言と行動に、どこか違和感を感じはじめて、支援者の列から離れた。その、彼らとの出会いと訣別の経緯を含めて「よど号」グループの工作活動の実態を書いたのが、『宿命─「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社)という本だった。

 私は、彼らの本当の姿がわかってくればくるほど、彼らのなかに不透明で異質なものを感じはじめていたのである。

 オウム真理教の一連の事件が引き起こされた一九九五年春という時期は、まだ彼らとの関係がいまほど決定的な訣別にはいたっておらず、私は事件の直後に、ある重要な内容の会談のためにピョンヤンを訪れた。

 明かしてしまえば、オウム真理教最高幹部のひとり、早川紀代秀「建設省」長官と「よど号」グループ、あるいは北朝鮮との関係について「よど号」グループのリーダー・田宮高麿と話をつめる必要があったからである。


 早川については、事件直後からなにかと北朝鮮との関係が噂されていた。会談の内容いかんによっては、オウム弁護団の今後の方針にも大きく影響のでる事がらだった。金正日からの「親筆指令」の内容に入る前に、ここは、まずはその時のことから書きはじめざるをえないだろう。


「尊師」と呼ばれて怒った田宮高麿

 会談は、結論を先に書いてしまえば、田宮の「早川幹部と『よど号』グループの間に直接的な繋がりは何もない」という言葉で打ち切られた。

 私の『宿命』という本にたいする北朝鮮側からの批判が、パンフレットになって北朝鮮で出されていることは第一回にも述べたが、じつはこのときのピョンヤンでのやりとりの模様が、そのパンフレットの中にも一部、出てくる。

 例によって嘘に嘘を積み重ねる手法のいつもの書き方だが、この稿をすすめるに当たって重要なことなので、若干の引用をしてみる。

「彼(筆者の私をさす)との交際の最後の時期、彼の言動には不穏当なものが多かった。食事中、田宮同志に対して『尊師』と呼んで、われわれを不愉快にさせたことがあった。もちろん『客人』と思いがまんし、そのことは顔色にも出さなかった。


 当時、オウム真理教事件が世間を騒がせていた時期だったが、この時期、なにかと彼は我々とオウムを結びつける発言をくり返していた。

・・・・・・『元統一教会幹部だったオウムの幹部が、ピョンヤンにきた可能性がある。彼と(我々が)会ったのではないか』等々」

「(田宮が)『オウムが起こした一連の事件は、外国勢力やで』と語ったと書きながら、(高沢は)それが、あたかも共和国を指しているかのように書いている・・・・・・田宮同志は明らかにアメリカのことを指してそう語っていた・・・・・・」

などなどである。このパンフレットには、そうした、やっきになってオウムと北朝鮮の関係を否定する言辞が頻出している。その不自然さが、私にこの連載の文章を書かせるきっかけのひとつにもなっているのだが、彼らの書いていることは、もちろん事実と違う。

 私は確かに、その訪朝時に、いささかふざけた意味合いと親しみを込めて、田宮のことを「尊師」と呼んだが、それは食事のときなどではなくて、空港に迎えに来てくれた田宮と一緒に、彼らの事務所に向かう車中でのことである。


 そして、本当のことを言ってしまえば、田宮が露骨に不愉快な顔を見せたのは、他の「よど号」メンバーと「妻」たちが、おもしろがって田宮を「尊師」と仲問うちで呼びはじめたときである。このときの田宮の不愉快そうな表情はいまでも、はっきりとおぼえている。

 田宮と私はその時、オウム真理教の事件をめぐって、いくつかのことを話し合った。その時に、田宮はこの連載第一回目の冒頭にふれたような、衝撃的なひとことを吐いたのである。「筋がちがう・・・・・・」と。


「私たちだったらよかった」

 彼は、同じときにこんなことも語している。「早川は、むしろIC関係か何かのことで、来ていたのではないか? 共和国がそれらのものを必要としているのは事実や」

「(サリン事件について)あれは、外勢(外国の勢力の謀略)や。恨みをもってでないと、ああいうやり方はできないのと違うか。日本人なら同じ日本人をあんなふうに無差別に殺すことはできないはずや」と。


 そして、彼ら「よど号」グループが日本向けに発行しているニューズ・レター『お元気ですか』が事件直後にオウムの事件にふれて「外勢の謀略ではないか」と書こうとした時、朝鮮労働党の指導員から検閲を受け、そこの部分の書き直しを命じられたというようなことも、田宮は語っていた。

 これらの証言は、北朝鮮側がオウム真理教の事件にたいして、極めて神経をとがらせていたという証言にもなっているだろう。

 そして、さらに衝撃的な言葉を、私はその時、田宮の口からではなく「妻」たちのひとりから聞いている。

「私たちではないですよ。ほんとうは、私たちだったら(私たちがあそこまでやれたのだったら)よかったのに。でも私たちじゃないんですよ」と。

 このひとりの「妻」が発した言葉の意味を、正確に理解するためには「親筆指令」の内容をここで詳しく復元してみなくてはならないだろう。ようやく、問題は核心に近づいてきた。金正日の指令は「よど号」の伸間うちでは「五・六書簡」の名前をもって呼ばれている。


 この指令が彼らのもとに届けられたのが、先にも書いたように一九八二年の五月六日のことだったからである。また、最後に麗々しくしたためられた金正日の署名の日付が、同じ五月六日とされているからでもある。

 そして一九八二年というこの年は、ちょうど金日成主席の生誕七十周年を記念する年だった。この金正日じきじきの「親筆指令」は、ほぼA4判に近い上質の用紙に数十ぺージにのぼり、大きなハングル文字で横書きに書かれている。

「よど号」グループにあてた「書簡」の形をとり、表題や見出しはない。最初に「前文」に相当するものがあり、そこにはこの「書簡」を「よど号」グループにあてて書くことの理由が述べられている。

 つまり「よど号」のハイジャッカーたちの共和国への入国は、お互いに貴重な出会いをもたらしたという内容である。

「諸君は金日成主義に精通した優秀な革命家として育った。諸君はすでに日本人民を指導する党としての役割を担えるように成長した。同志たちの指導のもとに日本革命を準備し達成する時期が、切実に迫ってきている」


 さらに、このことは「朝鮮革命の指導的な党である朝鮮労働党と、日本革命の指導的な党創建準備委員会(よど号グループのこと)の諸君との出会い」である、と。この言葉は「よど号」グループが金日成に最初に謁見したときの、金日成の言葉に由来している。以下につづく本文には、

「日本を金日成主義化するためには、どうしなければいけないか」

「金日成主義を日本革命に創造的に適用するためには、日本の状況に合わせた指導思想を、金日成主義思想のもとでつくっていかねばならない」

「日本革命の思想とは金日成主義のことである」

「金日成主義とは、労働考階級を領導階級(指導階級)とした勤労人民大衆の自主性を完全に実現させるための思想、と位置づけられる」

 など、金日成主義とチュチェ思想の正当性がマルクス・レーニン主義よりも高位のもとして位置づけられており、あらゆる世界、社会での唯一の指導的思想であることが述べられている。



「自衛隊工作」も指示された

 退屈な話になってきたが、ここはもう少しだけ読み進めてもらいたい。そして、それにつづく戦略・戦術論は、およそ次の三つに要約されている。この戦略・戦術論の展開こそが、ここで問題にすべき内容であるからである。

 まず、第一に金正日が述べている最初の課題は、

一、主体的力量の準備

であり、次に述べられている第二の課題こそが、

二、暴力革命の準備

なのである。これには少しばかりの解説が必要だ。わかりやすい言葉に要約して、解説してみよう。

 二の「暴力革命の準備」とは、一言で言ってしまうと、日本国内で軍事クーデターを引き起こせ、という指令である。

 そのための準備はすぐさまはじめなければならない重要な課題であり、決定的な時期を迎えたときに、その軍事クーデターは引き起こされねばならない、というものである。そのためには、


「軍隊(自衛隊)工作も含め、あらゆる戦線で軍事クーデターを準備せよ! 軍にいる人間を獲得し、さらに、育成して送り込め! そして軍事クーデターに必要な人間をあらゆる要所要所に配置せよ!革命的大事変を準備し、日本国内に引き起こさなければならない」

 というものである。これは日本の新左翼過激派のスローガンではない。北朝鮮という一国の指導者が、日本に金日成主義で革命を起こすために与えた方法、教示なのである。

 話を次に進めよう。では、そのためには、より広範囲に何が準備されなければならないか。これが第一番目の課題である「主体的力量の準備」の意味である。

「労働者階級を領導階級として結集させ、そのもとにあらゆる階層の勤労人民を結集させねばならない」

 小難しい言い方だが、ここで金正日が言っていることは、要するにいつでも決起させることのできる人間を、大衆のなかに準備せよ、ということである。ここから必然的に導き出されるのが、その決起のため、あるいは軍事クーデターのための中核となる人間の育成である。

 中核層、中核的人間の育成については、金日成主義を受け入れやすい人間であることが望ましく、そのためには他の思想的な影響を受けていない人問ほど望ましく、しかも社会的な関心度の強い人間が歓迎される。


 と、ここまで書いてくると、この人材の獲得と養成という方針は、なにやら別の脈絡で理解する読者もおられるのではないだろうか。

 そう、この「主体的力量の準備」という金正日最高指示こそが、のちのいくつかの「拉致事件」=「よど号」のハイジャッカーたちによる「欧州留学生拉致事件」を生んでいく、もとの発想になっていくのである。

 軍事クーデター、日本攪乱工作の内容は、じつは、日本人拉致工作と同根のものとして教示されていたのである。


 失敗した「よど号」グループ

 三つ目の課題内容は、朝鮮と日本の関係についてである。そこでは日本でこうした工作をし、クーデターと人の育成準備を行わなければならないことの意味付けが述べられていた。日朝の関係史や地理的条件、その近接性が述べられ「日本帝国主義論」で締めくくられている。

「日帝という敵を倒すことがお互いの革命にとって有利な条件をつくりだす。(日本のクーデターと南朝鮮の金日成革命の)利害関係は密接なつながりがあり、切り離すことのできないものである」


 いわば、日本のクーデターと南進(韓国)革命は車の両輪である、という意味である。では、アメリカについて金正日はどのような見方をしていただろうか?現在の米朝交渉などの緊張関係のなかにあって、このことを興味深く感じる読者も多いと思うので、そこのところを紹介する。

「米帝は日帝をおさえると、有利な方につく。主体的力量が問われているというのは、こういうことである。日本が金日成主義化されるとアメリカはそのことを無視できない。

 アメリカは日本を見捨ててわが方につくだろう。敵はあくまで日帝であり日本の独占資本、資本家階級である。アメリカは闘う相手ではない」

 あくまで、北朝鮮にとっての敵は日本である、とはっきり宣言されているのである。このことは、これからの日本の対北朝鮮外交においても心しておくべきことであろう。

 そして「よど号」のハイジャッカーたちが「人道帰国」運動などで国内への帰還を願い、日本に帰国するべき理由もここにあったのである。


 彼らは「祖国」という言葉を巧みに使いながら、そのじつ、対日工作の先兵として位置づけられ、活動してきたが、その理由も、すべてはこの金正日指令によっている。しかし、この「指令」を実現しようとした「よど号」グループの工作活動は、一九八〇年代の後半に挫折した。

 国内潜入中だった柴田泰弘が逮捕され、潜入帰国をくり返していた「妻」たちにも「北朝鮮工作員との接触」を理由に、外務省から旅券返納命令が出された(一九八八年)。さらに、旅券法違反等で国際指名手配も受けている。

「よど号」の対日工作は挫折し、ヨーロッパで繰り広げていた日本人獲得工作(拉致)も、東欧諸国の崩壊などで前線基地と工作拠点を失い、成績を上げられなくなったのである。

 オウム真理教が突然のように「日本転覆計画」を言いはじめ、教団武装化という変質を見せはじめた、ちょうど、その時期のことであった。これまでの連載で指摘したように、工作員Aがオウムに潜入したのも、この頃である。

「よど号」グループが失敗した金正日指令の「日本破壊・攪乱工作」を、ちがう筋で、見事に実行したのが、オウムではなかったのか。


「私たちができればよかったのに」という「よど号」の「妻」の、くやしさを込めたつぶやきな、そのことを如実に示していたのではなかっただろうか。

 オウム真理教の事件は、それでは北朝鮮にとってどのような意味を持つものだったのか。その意義はあくまで、日本攪乱工作の予行演習的な意味合いが強かったのではないか、と考えることができるだろう。

 それは日本の首都の中枢部・霞が関をターゲットにしたことでも窺える。日本の危機管理の杜撰さと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった。

 しかし、たったひとつオウム真理教の事件には、北朝鮮側から見て金日成主義という「指導思想」が欠けていた。オウム真理教には、チュチェ思想の注入が最初から不足であったからである。

 だが、ここにおいて金正日の「野望」は、麻原彰晃の「夢想」とぴったり重なっていたようにも思えるのである。秘められた金正日の「極秘破壊工作」指令は、オウム真理教の一連のテロ事件を解読するうえで、重要なカギである。

(文中敬称略、以下次号)


週刊現代 平成十一年九月十八日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第四回

故金日成の「毒ガス兵器」研究と麻原彰晃のテロ実行

 韓国の情報機関は事件に「北」の影を察知していた! 一連のオウム事件が起こった直後から、韓国が事件と北朝鮮の関係に注目していたことはよく知られている。その根拠には、先週号で指摘した、金正日総書記の「日本破壊・掻乱工作」の存在があったことはいうまでもない。そしてもう一つの根拠が、故・金日成主席が指示した「毒ガス兵器」研究だった。


 オウム事件は「第二次クーデター」

「私たちだったら、よかったのに。でも、私たちじゃないですよ。私たちには、あそこまでの力量がなかった」

 サリン事件をはじめとする一連の才ウム真理教テロ事件のあと、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都・ピョンヤンを訪れた私の前で「よど号」ハイジャック・グループの「妻」たちのひとりがそうつぶやいた。

 東ピョンヤンの、グループの事務所の一室、鞄の中身を整理しはじめていた私は、その言葉に思わず振り返った。

 オウムのテロ事件が引き起こされたとき、その事件の性格と、北朝鮮工作組織のやり方との類似性に、どこかで「よど号」グループも関与していたのではないか、という漠然とした倶(おそ)れを私はいだいていた。

 そのことを彼らだけでなく「妻」たちにも問い質した直後のことである。「よど号」グループは公的には関与を否定したが、その動揺は隠せないものだった。

 もっともこの動揺は、関与の事実というよりも、どこかで思い当たることがあるという、不安を表現した動揺であったのだろう。


 その背後には、一九八二年五月六日、金正日がピョンヤンの「よど号」、のハイジャッカーたち(現在の彼らの組織は「自主革命党」という党組織になっている)に与えた「日本破壊・掻乱工作」の「親筆指令」があった。

 この「親筆指令」のなかに書かれていた日本攪乱工作の内容が、サリン事件につづく一連のオウム真理教のテロ事件と、写し絵のように重なっていたのである。

 金正日の幻の「日本クーデター計画」と、オウム真理教のテロ事件のあまりもの類似に、私は戦慄したが、それは私だけでなく、当の「よど号」のハイジャッカーたちにも大きな動揺を与えていた。

 しかし、この対日工作を担った「よど号」グループは、日本国内への潜入帰国や「妻」たちのたびたびにわたる北朝鮮と日本国内の往来にもかかわらず「指令」の内容を具体化させ、実行に移すことに失敗した。

 この幻の攪乱工作(クーデター工作)を仮に第一次クーデター工作と呼ぶことができるとすれば、オウムの一連のテロ事件は、まさに第二次クーデター工作と呼ばれるべきものではなかったのか。



 韓国政府関係者も「北が関わっている」

 オウム真理教の一連の事件の背後には、はっきりと、北朝鮮工作組織の深い闇と影がある。この疑惑は、事件直後から何度も浮上していた。

『週刊現代』誌上でも「闇の組織」として当時も何度か取り上げられている。しかし、その実態はいまだに解明されたとは言えないままである。

 しかし事件当時から、いちはやくサリン事件をはじめとする一連のテロ事件に、北朝鮮の影を読み取っていた国や機関は数多くあった。

 地下鉄サリン事件の直後、ニューヨークや香港では、毒ガスを使ったテロ事件を想定して緊急の対応策が検討されているし、防護・避難訓練が行われている。

 このうちもっとも反応が早かったのは、もちろんというべきだろうが、韓国だった。東京の地下鉄サリン事件が起こったのは一九九五年三月二〇日。

 その翌日の三月二十一日にはソウルを中心に全国の地下鉄、鉄道、空港、デパートでの検問を強化、緊急の対策に乗り出している。


 さらに、ソウルだけではなく釜山などの主要都市を含めて、地下鉄駅に毒ガス用の防護マスクと解毒剤を配備した。国民への対処要領の配布や、広報、呼びかけ、訓練なども実施された。

「毒ガスから逃げるときは防護マスクや濡れタオル、ビニールなどのありあわせのもので呼吸器を保護し、皮膚の露出を避ける」よう呼びかけてもいる。

 これらの韓国の対応は、一般的なテロ対策だけだとは、とうてい思われない迅速な処置である。明らかに北朝鮮のテロ活動を意識していた。

 さらに、韓国の新聞『東亜日報』や『朝鮮日報』は「北朝鮮が毒ガスを使ったテロ行為に出るおそれがある」ことをはっきりと、紙面で警告していた。

 韓国の政府と情報機関は、一連のオウムの事件とサリンという毒ガス兵器に、北朝鮮の影をはっきりと読み取っていたのである。北朝鮮が大量の毒ガス、サリンを保有していることを報道した新聞もあった。

「明らかに北朝鮮のやり方だと想定されました。東京で事件が起こったなら、ほぼ同時にソウルでも同じような毒ガスを使った事件が引き起こされるのではないか、ということがいちばん心配されたことです。

 (韓国)国内では、これまでに北朝鮮の工作組織によるテロ事件が頻発しているという事情がありましたから」(韓国政府関係者)という証言もある。


 この韓国政府関係者は、また「オウム事件の背後に、直接ではなくとも何らかの形で、北朝鮮の工作組織が関わっているのは、ほぼ間違いのないこと」とも、語っている。

 まさに金正日の極秘「破壊・撹乱工作」の内容を、筋の違うものではあっても、韓国の情報機関は明確に察知していたことになる。


 最大の狙いは「自衛隊工作」

 では日本の政府、公安当局ではどうだったのか? 一連のオウムの事件のその後の捜査の状況を追いかけてみると、はなはだ不思議な事実にいきあたる。

 事件の背後に北朝鮮の影が落ちはじめると、なぜか、捜査はそこで行き詰まり、突然、方針が転換されているとしか思えないような事態が頻出する。

 国松警察庁長官狙撃事件しかり、村井幹部刺殺事件しかり、オウム幹部の北朝鮮渡航疑惑しかり、覚醒剤疑惑しかり・・・・・・である。

 取材を進めるなかで、どうやら、この事情は、あくまで一連の事件を一般的な刑事犯罪の枠のなかに閉じ込め、真相の隠蔽(いんぺい)を意図しているのではないか、と思われるような事態にも遭遇した。


 もっとも、自衛隊のみは事件の直後から、情報部門の組織改変をすすめ「アジア地域の情報収集と分析の強化」を主眼に「防衛庁情報本部」を設置した。

 では、なぜ自衛隊だけが、このように北朝鮮に関する情報収集の強化を図ったのか。それは、北朝鮮がいろいろな形で対自衛隊工作を仕掛けてきていることを、自衛隊自身が察知していたからに他ならない。

 ここで私は、驚くべき事実を初めて証言しようと思う。実は「よど号」ハィジャッカーたちの対日工作の中で、最大の狙いは、他ならぬ「自衛隊工作」だったのである。

「よど号」グループに下された金正日の「親筆指令」のなかには、次のようなことが述べられている。

「軍隊(自衛隊)工作も含め、あらゆる戦線で軍事クーデターを準備せよ! 軍にいる人間を獲得し、さらに、育成して送り込め! そして軍事クーデターに必要な人間をあらゆる要所要所に配置せよ!」

 ここで重要なのは「育成して送り込め!」という部分である。実際「よど号」グループが注目し、実践に移そうとしたのもこの部分だった。メンバーの一人、柴田泰弘が国内に潜入した任務も、ここの部分の比重が大きかった。


 彼らが考えたことは、国内で年若い青少年を選び、出身や身元の調査(北朝鮮の工作用語で「人定了解活動」という)を終えたのちに、身元(北朝鮮の用語で「出身成分」という)が問題なければ北朝鮮に送り込む。

 北朝鮮で思想教育を受けさせたのち、日本に帰国させる。この段階で問題を生じたケースでは、そのまま「拉致事件」になるケースもあった。日本国内から十代の青少年がそのまま消息を絶つことになる。

 思想教育あるいはブレーン・ウオッシング(洗脳)がうまくいった場合には、若者は日本に帰国させられ、指示に従って防衛大学校を受験させられる。仮面の下に金日成思想を隠した将来の幹部候補生がひとり誕生する。防衛庁および自衛隊に潜入工作員が送り込まれたことになるのである。

 この潜入工作員は、普段は普通の隊員として目常生活を送り、自ら金日成主義の思想を語ることもなければ、それらしいそぶりを見せることもない。金日成主義の工作活動員にとって、自らの思想信条を明かさないことは工作活動上の鉄則である。

 ひそやかに、ゆっくりと工作員は培養される。そして、ある決定的な事態が引き起こされたとき、この工作員は、はじめて自分の任務を果たすことを要求される。


 実際、そのような形で「よど号」グループの手によって北朝鮮に送り込まれた人間は多数にのぼる。彼らの日本人獲得工作の秘められた、もうひとつの真の意図は、そこにこそあった。

 これは、彼らの政治組織拡大のため「中堅幹部養成」要員としてヨーロッパ留学生を「拉致」していた事件とは、はなはだしく事情の異なる工作の一面だった。

 国内に潜入していた柴田泰弘が「現役会」と称する高校生対象の進路指導の会に指導員として潜り込んでいたのも、じつは、そこに狙いがあったようである。

 この工作活動は、八十年代の前半に、主として北朝鮮と日本を往来していた「よど号」の「妻」たちによって担われていた。当時の獲得者の何人かは、すでに自衛隊内部で幹部の地位にいてもおかしくはない。

 もっとも、この工作活動は八十年代の後半には、より細分化され、工作活動の幅も広がり、実際には彼女たちがどの.ような工作任務に位置づけられているのか、自分でもわかっていた人間は少ないはずである。

 後年の横須賀のカフェ・バー「夢見波」の事件では、北朝鮮の「工作員」として店のママが逮捕されたことがあったが、彼女の場合のように、まったくのダミー要員であった例もある。


 これらの例からもわかるように、北朝鮮の工作組織の活動実態は、極めて巧妙で長期間のタイム・スパンのもとに計画実行されている。そして、複雑怪奇なのである。


『金日成著作集』に躍る「毒ガス」の文字

 さて、この工作例と極めて類似した事件が、オウム真理教の周辺でも起こっていたことを記憶されているだろうか?

 千葉県習志野市の陸上自衛隊第一空挺団が、サリン事件直後に実施した出動準備態勢の内容が、オウム真理敦の雑誌『ヴァジラヤーナ・サッチャ』に詳細に報じられていたという事件である。

 公表されていない内容も含めて、オウム真理教側は詳細に把握していた。これらの情報は、自衛隊内部からの漏洩と見られ、一躍、ニュースとなった。

 これらの事件の背景にも、対自衛隊工作と表裏一体となった、ある種の工作活動の影がかいま見えている。

 そして、これもまた、かつて「よど号」のハイジャッカーたちが、国内で企てていた(そして失敗した)工作活動の実態と、極めて類似したものとして重なってくるのである。


 教団武装化を唱えはじめたオウム真理教が、武器の製造と兵器の開発に活動の重点をおいていったことは、すでによく知られている事実だが、しかし、ではなぜ、サリンであり、毒ガス、あるいは細菌兵器であったのか。

 これは、兵器の種類としても一種、異様なものに見える。オウム真理教はこれちの兵器製造をどこから発想したのだろうか。

 またサリン事件のあと、韓国政府が、なぜ、あまりにも用意周到に北朝鮮を想定した防護訓練を実施していたのか。

 これまでにも指摘したように、これらの兵器と武器開発こそは、北朝鮮という全体主義国家を読み解く、ひとつの重要なキー・ワードそのものであったのである。

 ここに金日成の毒ガス、あるいは細菌兵器についての大量の論文・教示がある。その中の一つ、『金日成著作集』に書かれた記述をここに紹介しよう。私の手元にあるのはピョンヤン版である。

「アメリカ帝国主義者が細菌兵器を使用しているからといって狼狽したり恐怖をいだく必要はなく、また、だからといって警戒心を高めず、細菌兵器にたいする対策をおろそかにしてもなりません。


細菌兵器にたいする戦いは、ねばり強く行うべきです」

「アメリカ帝国主義が朝鮮人民にたいし細菌兵器を用いているのは世人のよく知るところです」

「細菌兵器の使用に効果的に対処するため、・・・・・・各種の予防薬を量産しうるよう科学研究活動を行うべきです」

「アメリカ帝国主義者は・・・・・・朝鮮戦争で毒ガスや細菌弾までためらうことなく使っています」

「十六ヶ国の武カ侵略者は朝鮮民主主義人民共和国にたいし各種の現代兵器と細菌兵器、毒ガスやナパーム弾を使用しています」

「朝鮮人民に・・・・・・殺人用細菌兵器、毒ガス、ナパーム弾を使用・・・・・・アメリカ空軍は細菌弾と殺人用微生物の入った各種物体を投下しました」

 これなどは、まるでオウム真理教が最初に主張していた「サティアンを狙って、米軍がサリンを散布している」という主張とそっくりである。


 誰が麻原に吹き込んだのか

 また『金日成著作集』には「敵の細菌兵器にたいする闘争対策について」と題した一文もおさめられている。


 もちろん、ここで述べられているほとんどの教示、内容は一九五〇年当時の朝鮮戦争時のものである。

 しかし、これらの金日成教示は、毒ガス、細菌兵器という単語のオンパレードでもあった。そして金日成はそれらの細菌兵器や毒ガスの研究を、ここに見るようにたびたび呼びかけていた。

 でも、ここで金日成が呼びかけているのは防護策と解毒剤の研究ではないか、と思われるかもしれない。しかし、防護策と解毒剤の研究こそは、それらの製造研究を呼びかけていることと同義なのである。

 その物が製造できなければ、その防護策と解毒剤の研究もできない。防護策を研究するためには、まずそれを製造する技術を手に入れなければならない。

 金日成がそれらの研究を呼びかけているというこの事実だけが、この場合、極めて重要な意味を持っている。

 このことは、かつて「反核」運動を背後で操りながら、実際には「核」開発の研究を推進した例でも明らかであろう。

 朝鮮戦争以降、北朝鮮では毒ガス、細菌兵器の研究が、国家的課題として進められたことは、いまでは疑う余地のないことになっている。


 そして、金日成の著作、教示に親しめば親しむほど、これらの「言葉」と兵器としての重要度は、金日成主義考の頭脳に強烈にインプットされることになる。

 オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである。

 では、誰が、これらの知識を、麻原彰晃をはじめとするオウム真理教の幹部に吹き込んだのであろうか? あるいは誰が、どのようにオウム真理教を「反米帝」テロ組織、北朝鮮型の組織体系として育成し、誘導していったのだろうか。

 私たちはオウム真理教に潜入したAというチュチェ思想国際研究所(尾上健一事務局長)の元局員を追いつづけた。しかし、これだけのことをAひとりがやったのだとは、とうてい思えない。私たちはさらに、教団内部の北朝鮮コネクションを追いつづけた。

 そして、そこに「工作員」Aに連なる「工作員」B「工作員」C、D、E、F・・・・・・という、北朝鮮工作組織につながる者たちの隠された姿を捉えることになったのである。

(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 時任兼作、今若孝夫(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年九月二十五日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第五回

「潜入工作員」Aが全ての疑惑に答えた
オウム入信の目的から「よど号」犯との関係まで

 まさに「対決」という言葉がふさわしいインタビューだった。講談社ノンフィクション賞を受賞した高沢氏の鋭い質問に、最初は努めて冷静だったA(四十六歳)が、徐々に追いつめられ、渋々、事実関係を認めていく。そして取材の最後には、こうつぶやいたのである。「僕の身は危険でしょうかね――」と。


 深夜電話をかけてきた謎の男

 時計の針は、午前一時を少し回っていた。突然、電話が鳴った。マドリッドでのことである。

 夜の底から伝わってくる男の声が「そちらが探しているAという男のことを、よく知っている人間が見つかった」と言っている。昼間の男だった。

 私たち取材班は、オウム真理教に潜入していたとみられる北朝鮮「工作」組織の実態を追いかけて、スペインの首都・マドリッドに来ていた。

 Aは、そうした疑惑の濃い一連の人物のなかでも、とりわけ不可思議な経歴を持つ男だった。

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への度々の渡航歴、チュチェ(主体)思想研究会会員、チュチェ思想国際研究所の局員という経歴。

 そして、ヨーロッパにおける北朝鮮の重要な工作拠点である、スペインでの長期滞在とその後の頻繁なマドリッドヘの渡航。

 そのAは、滞在中のここスペインからオウム真理教に入信し、目本への帰国とともに出家して、教団施設内で武器製造に携わっていた。


 一九九五年の一連のオウム真理教テロ事件のあとは突然に教団を脱会し、ふたたび頻繁な海外渡航をくり返している。

 前々日の昼間、私たちはこの電話をかけてきた日本人の男と、はじめて接触していた。ごく一般的な取材のあと、Aのマドリッドでの生活ぶりを質問したのである。

 本来ならば、私たちの取材は、この男に対するかぎり、そこで終わるはずだった。ところがここにきて、その男からの深夜の電話である。

「いまからホテルに行ってもいいか? 証人を連れていく」男は電話口でくり返していた。

「・・・・・・わかった。OKだ。それではロビーで」

 ロビーに降りると、まだ人の姿があちこちに見えた。夜会の終わりだろうか、着飾ったドレス姿の女たちも見える。フラメンコの旋律が耳に届いた。

 夏のマドリッドの夜は、たしかに遅い。しかし、それにしても深夜の一時半だ。どこかで疑念が首をもたげるのを感じていた。

 しばらくして男の姿が見えた。最初に聞いてきたのは、私たちのその日の動きと、どこまで取材の成果が上がったのか、ということだった。


 言葉を選んで、慎重に対応する。業を煮やしたのか、いきなり男が言った。

「Aはオウムですよ。自分では隠しているようだが、彼はオウムにまちがいない。スペインに来てまで、何をしようとしていたんですかね。Aのことは、ここにいる彼がよく知っていますよ」

 男に促されるようにして、連れられてきた証人と称する第二の男が口を開いた。日本語。朴訥(ぼくとつ)な話し方だ。ふと、暗記した台詞をそのまま話しているのではないか、という印象すら受ける。

「ええ、あれはAが日本に帰国する一ヵ月ほど前のことですが、オウムの本を持ってきて、内容が自分の考えとよく合っている、自分も会員になりたいと思っている。だから日本に帰る、と。そう、本以外にも尊師の書いた文章だというもののコピーも持っていました」

「それから『スペインには支部がないから、そのうちこっちにもつくりたい』というようなことも言っていました。それ以前は、そんなことを言ったことはありませんでしたが。
 Aはあまり人付き合いがよくなくて、ひっそりと行動していたようなので、ほかにも勧誘された人間がいたかどうかはわかりません」


──その話を聞いたのは、いつ頃のことですか。

「ええっと、Aが帰国する頃でしたから九十二年です・・・・・・」

──オウムと言われたときにすぐに分かりましたか。

「ええ、すぐに分かりました。いろいろと問題のある宗教でしたから」


 Aと北朝鮮の関係を隠す意図が

 私たちは彼の証言を興味深く聞いていたが、この答えを聞いて、あらためて疑念が湧き出してくるのを感じた。どこかが少しだけ、ずれている。そんな不協和音を感じたのである。

 一九九二年、Aがスペインでの長期滞在を切り上げて日本に帰国する当時、オウム真理教の名前がそれほど有名だったとはとても考えられない。

 教団の犯罪はまだなにひとつ露見しておらず、世界を震撼させた一連のテロ事件もまだ実行されていない。なによりAが、これから日本に帰国して出家しようとする時期のことである。

 オウム真理教は、世間的にはまだローカルな新興宗教のひとつに過ぎなかった。しかもこれは、日本ではなくスペインでの話である。


 話の最後に、私たちはマドリッドを舞台にした「よど号」のハイジャッカーたちによる「拉致」事件のことを話題にした。話のなりゆきというものだったろう。

「どうやら、いまでもマドリッドには北朝鮮の工作拠点があるようだし・・・・・・」その一瞬、電話の男の視線がきつく鋭さを増し、こちらを刺しつらぬくのを私たちは、はっきりと見ていた。

 この話には後日談がある。くだんの男が、私たちが取材を終えて帰国したのちにも、私たちのことを誰彼なく聞き出していたという話が噂となって伝わってきた。さらに、あの日の深夜の顛末話すと、普段の男を知るほとんどの関係者が首を傾げた。

 そして、私たちはこの男が、やはり「マドリッド在住の他の日本人とはどこか違う人物」(男の知人)であるという証言や、日本国内で北朝鮮と密接なつながりのある人間であることに、ようやく辿りついたのである。

 では、これはいったいどういうことか。北朝鮮と関係の深い真夜中の電話の男が、同じく北朝鮮と関係の深いAのことをあしざまに非難している。Aは、オウムの信徒で、いかにも悪いやつだ、と。


 私たちは、そこで恐ろしい疑念に突きあたった。男の深夜の来訪の意図は、Aの背景から「北朝鮮」という絡みを極力取り除き、隠し通すことにあったのではないのか。そのためにこその電話であり、不自然な「証人」だったのではなかっただろうか、と。

「Aは単純にオウム真理教信者であり、あいつは北朝鮮とはなんのつながりも持ったことがない」

と私たちにアピールすることが目的だったのではあるまいか? 私たちは、問題の男A本人に、どうしても一度、詳しく話を聞く必要を感じていた。


 精惇で猛禽類の鋭さをもった目

 Aと連絡がとれたのは、それからしばらくのちのことだった。Aは最初、話をするべきことはなにもない、と頑なに取材を拒否していた。何度かの電話でのやりとりのあと、しかし、ようやく私たちはAに直接の疑惑をぶつけることができた。

 Aは精停な顔つきで、がっしりと鍛えられた体つきをしていた。目の表情に時折、猛禽類の鋭さが宿る。ただ、なにがしか陰りが感じられたのは、気のせいだったのだろうか。

 Aは自分がチュチェ思想研究会の活動をしていたことも、オウム真理教にいたことも、すぐにすべてを認めた。


「いまは、どちらもやめていますが・・・・・・」

 話はチュチェ思想とのかかわりから始まった。

 ──チュチェ研にかかわった経緯は?

「高校時代は全共闘の運動が盛んで、(生まれた)地元の広島大学には中核派が多かったのですが、僕自身はまだノンポリでした。一九六九年に京都の大学に入り、自治会の活動をやっていました。卒業は七十四年です。

 部落解放運動や朝鮮問題などをおもにやっていました。でも、セクトの運動にはそれほど熱心になれませんでした。

 大学の三〜四年の頃、チュチェ研の人間と知り合い、人間が中心であるというその思想と響きのよさに引かれて、活動にのめり込んでいきました。

 でも、最初から組織生活を強いられ、窮屈だなあ、という印象が強かったです。そう思いながらも、ずるずるとつづけて、組織のなかでの役割もだんだん大きくなっていったんです。

 その後、支部長として、ほかのメンバーとふたりで和歌山にオルグに行ったんですが、結局、うまくいかなかったですね。多くて四〜五人しか集まらなかった。


 そのころ、東京からチュチェ思想国際研究所に来ないか、という声がかかって上京しました。当時の事務局長は尾上健一さんでした。

 そこで四〜五年間、研究員をしていましたが、八十五年には辞めています。私にとっては、研究所内部のあり方に不満がつのるばかりで、なにより尾上さんに対する反発が大きかった。そのころ同じチュチェ研の仲間だった妻も、別の理由ですでにやめていました」

 取材班は、チュチェ研、さらには国際研究所時代のAを知る尾上健一事務局長に何度も連絡を取っているが、彼からの応答はこれまでのところいっさいない。Aの話をつづけて聞くことにする。

──尾上氏への反発とはどんなものだったのか。

「口ではチュチェ、チュチェと言ってるわりには、その思想に反して人間的には堕落しているような印象を受けました。強権的で厳しく、ちょっとしたミスに対する処分の厳しさにもうんざりさせられましたね。

 私が研究所を離れたのは、チュチェ思想そのものに反発したわけではなく、所属した組織そのものへの反発でした。何度か、戻ってこい、と言われたこともありましたが、もう、気持ちが駄目でした」


 Aは、チュチェ思想そのものに幻滅したのではなく、組織への反発だった、という。研究所はやめたがチュチェ思想を捨てたわけではない、という他の人物がいることも私は知っている。


「チュチェ思想はすばらしい」

──いまでもチュチェ思想は間違っていない、と思っていますか。

「チュチェ思想自体は、人間中心という意味で、すばらしい思想だと思っています」

──では、どうしてオウムに入信したんですか。

「純粋に自分の宗教心からでした。どこかの組織の指示で潜入したということではありません」

──しかし、チュチェ思想とオウム真理教では、あまりにも隔たりがあるように見受けられますが。

「潜入したということではありません。オウムのことを当時はゴキブリも殺さない暖かい宗教だと思っていましたから」

──でも、オウムは無差別なテロ事件を引き起こしています。

「オウムには、ヴァジラヤーナという教えがありましたから・・・・・・」


 ヴァジラヤーナの戒律には、殺人を正当化する教えが含まれていることは知られている通りである。オウム真理教はこの教えに法って人をポアしてきた、といわれている。

──スペインにはなぜ?

「チュチェ思想国際研究所にいたとき『南米からもいろいろな人や資料がくるから、お前、翻訳をやれ』と言われたのがきっかけです。大学の第二外国語がスペイン語だったこともあって、研究所から金を出してもらって、語学校に二年半ほど通っていました。

 チュチェ研をやめてから、何ができるかを考えたときに、スペイン語を生かすことができれば、と考えてスペインに行こうと考えたんです。語学留学です」

──質問を急に変えることになりますが、柴田という男を知っていますか。

「いえ、知らない。どういう男ですか?」

──「よど号」ハィジャックのメンバーですが。その柴田が何度か泊まっていたマドリッド市内のホテルに、あなたも何度か泊まってますよね? Oというオスタルですが。

「知らないなあ・・・・・・」

──あのオスタルは、北朝鮮の工作拠点にされているとの疑いもありますが。


「えっ、そうなんですか? 僕はぜんぜん知らないですよ。あっ、二〜三日、泊まったことがあったかもしれません。おばちゃんがいますね、たしか・・・・・・」

──あなたは、当時、北朝鮮の「工作員」だったのではないですか。すべての相関図の中心にあなたの存在があるのですが。

「とんでもない。僕は百パーセント、潔白ですよ。正直言って、そんなことを北から頼まれたことも、やったこともいっさいありません」

──いまは、どうですか。

「もちろん、潔白です」

 ここで質問者は、Aのマドリッド滞在時に周辺にいた、北朝鮮と関係が深いと思われる人間の名前を何人かあげた。いずれも当時、親しく付き合っていたとされる人たちである。

──○○さんを知っていますか?

「知らないなあ」

──○○氏のことは?

「知らない」

──○○氏はどうですか。

「記憶にないなあ」


 しかし、これまで冷静に対応していたAが、わずかに動揺を見せたのはこのときである。そして、このときと、あと一度だけだった。

 これだけの直接的な質問をぶつけられながら、Aは終始、その冷静さを崩さなかった。ときおり、眼光がするどくこちらを射抜いた。私は、そこに金日成主義者の強固な意志をみたように思った。

──じつはマドリッドでは、あなたについて悪い噂が流れています。

「えっ、なぜですかね。半年くらい部屋にこもって、ヨガの修行をしていたことがあったので、そのせいかな」

──○○氏(先述した深夜の電話の男)のことは知っていますか? 彼も京都にいたはずですが?

「えっ、それは知らなかった。彼もチュチェに?」

──なぜ、あなたについて悪い噂が広がっていると思いますか。

「チュチェ時代に『あいつは日和見主義的な立場をとっている』と思われていたからでしょう」

──北朝鮮には何回くらい行きましたか。

「三回。そのたびに比較的長い期間を向こうにいました。一度は三ヵ月くらいいたこともあります」


──そのとき「よど号」のメンバーとは会いましたか。

「いえ、僕は会っていません。代表団としていった時など、ほかのメンバーは会った人もいたようですが」

 ここでAは意外なことを言った。北朝鮮に何度か滞在していた時、黄長ヨプ元朝鮮労働党中央委員会書記とは何度も会ったことがある、というのである。

 黄は金日成、金正日父子の側近中の側近である、超大物だ。彼のチュチェ思想研究はこの黄長ヨプ書記から直接、指導を受けたものだったらしい。

 黄書記は、その後、一九九七年二月、韓国に亡命し、世界中に衝撃を与えることになったのだが、Aからそのことについての感想を聞くことはできなかった。

 ただ、この話のなかで、Aが日本のチュチエ思想研究気のレベルよりははるかに深く、金日成主義とチュチェ思想にのめり込んでいたのだということだけは、わかった。


 もう一人の潜入工作員は医師

──いまの北朝鮮についてどう思っていますか? あるいは金正日についてなど。

「チュチエ思想については、いまでも間違っているとは思わないけど、北朝鮮という国のことになると、僕なんかが何かを言うというものではないと思うんです」


──オウム真理教に入ったのも北の指示ではなかったのですか。

「ありえない話ですよ。チュチェのメンバーで、工作員になっている人間なんていないはず。上からそんな指示を受けることもないし、北の御用機関になることもありえない」

──金日成主義には「領導芸術」という言葉があるように、知らず知らずのうちに相手を誘導していく技術というものがある。優秀なチュチェ思想の活動家であるあなたにとって、それは容易いものではなかったのか。心理的な誘導というか、相手が自分の意志であるかのようにひとつの方向を選んでいく、という・・・・・・。

 Aの顔色が、一瞬、さっと変わった。そしてこのときが、冷静沈着なAに、わずかに内面の動揺がかいま見えた二度目だった。

「あなたは、領導芸術という言葉を、そんなふうにしか理解していないのか!」

 言葉は激しく、そう言い放ったAだったが、次の瞬間には、即座に冷静なAに戻っていた。印象的な一幕だった。

──しかし、いろいろなデータは、あなたがそうであってもおかしくないことを指し示している。悪い噂もささやかれはじめている。


もし、あなたがスケープ・ゴートにされているなら、その疑惑を晴らす意味でも、もっと本当のことを語るべきではないか。

「たしかに自分の目標を持って入り、その目標を達成できずに組織から出てきたわけだから、自分なりに総括はすべきだとは思う」

 時間はあっという間に過ぎていた。これだけの話を終わって時計を見ると、すでに話しはじめてから二時間以上が過ぎていた。

 このインタビューの内容は、できるかぎりAの発言を正確に再現するようにつとめた。取材班の立場だけでなく、Aの言い分もはっきりと伝えておきたいがためである。

 結局、Aは私たちの疑惑をすべて否定した。別れ際、Aはふっと「僕は危ないですかね・・・・・・」と言った。

「ひとりで歩かない方がいいかもしれませんね」と、私は言った。「告発するなら、味方になります」と私は付け加えた。

 さて、ここで私は、このAに連なるBという疑惑の「潜入工作員」について、そろそろ語りはじめなければならなくなった。


 Bは六十二年生まれ。長野の大学の医学部を卒業し、共産党系の病院に入局。その後、日本国内における北朝鮮の工作活動拠点の一つとの疑惑がある、東京都内の病院に、なぜか突然、転職し、さらにオウム真理教附属病院で医師として働きはじめる。

「Bは特別な信徒だったので、よくおぼえています。九十四年に入信後、すぐに幹部待遇(師補)となってホーリーネームをもらい、麻原とも直接にいろいろとやりとりをしていました。彼の冷然とした態度、違法行為をも平然と行う姿が教団内部でも印象的でした」(元信老の証言)

 私たちは、このBについて、音信の途絶えていたAに連絡をとった。すぐさま、代理人から、今後いっさいの取材に応じる気持ちはない旨の通告があった。

 しかし、その翌日のことである。Aから、ふたたび代理人を通じてメッセージが届き「Bという人については知りません。私は、医師と接触することはほとんどなかった」とあった。

(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 今若孝夫、時任兼作(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年十月二日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第六回

もう一人の「潜入工作員」は林郁夫の右腕だった

電気ショックによる記憶消し、薬物使用した洗脳…北朝鮮の"人格改造技術"をオウム真理教附属病院で実践した男

 オウム真理教が、薬物や電気ショックを使って信者を「洗脳」していたことはよく知られているが、こうした恐ろしい手口は、すでに北朝鮮で実践されていたという。オウム病院に潜入した工作員Bは、この非合法活動に手を染めていた。しかもこの男は、麻原さえも「洗脳」できる立場にあったのである。



 麻原彰晃の寵愛を受けていた

 オウム真理教を過激なテロ行為に誘導していったと思われる幾人かの疑惑の人物。

 これらの人物像に共通するのは、いずれも教団内部ではそれぞれに重要な立場を占めながら、あくまで目立った存在ではなく、あたかも影のようにひっそりと息をひそめて存在しているということだ。

 したがって、彼らは、これまでの厖大なオウム真理教のマスコミ報道にも、ほとんど登場したことがなく、その姿を明確には露出させてはいない。

 これから、ここで語りはじめなければならない疑惑の「潜入工作員」B(三十七歳)についても、元信者の次のような証言がある。

「Bはマスコミ的には華やかな人物でも有名な人間でもありませんでしたが、教団内では重要なポストにいた人間でした。でも、なぜ、彼は逮捕されなかったのでしょうか? あれだけのことをしておいて、彼だけが逮捕をまぬがれているということが、そもそも解せません」

 私たち取材班が追いかけていたBは、教祖・麻原彰晃(松本智津夫)の側近医療団の中にいた、心理療法に長けていたといわれる一人の医師である。彼は教団内部でも特別な扱いを受けていた、不思議な人物といわれる。


「Bは特別な信徒だったので、よくおぼえています。似年の四月に出家するとすぐに、師補という立場の幹部待遇になってホーリーネームをもらい、麻原とも直接にいろいろとやりとりをしていました。私たち(元)信者の間でも、不思議な人物として強い印象が残っている人です。

 教祖の寵愛を受け、医師として麻原の面倒をよくみていたようです。また、教団内の活動においても重要な仕事をまかされ、医療部で医療部長の立場で、附属病院の院長だった林郁夫の右腕として、かなり危ないことを平気でやっていたようです。

 ワークといって、イニシエ一ーション(秘儀伝授)など、オウム真理教の独自の修行があったのですが、いまから考えると、あきらかに違法行為だと思われるようなことを平然と行なう冷酷そうな姿が印象的でした。

 Bの名前を聞くと、まずそのことを思い出します。それにもかかわらず、彼はあの事件のときに逮捕されていないですよね。いままでずっと不思議だったのです」(事件後にオウムを脱会した元信者)

 取材班はBの足取りを追った。そして、Aの場合と同じように、奇妙な事実に行きあたった。闇のなかにひっそりと身を潜める疑惑の男。


 そのBにも、驚いたことに北朝鮮(朝鮮民主主義人氏共和国)との接点が浮かび上がってきたのである。彼ら「影の工作者」たちの背後には、なぜか共通して、金日成主義とチュチェ思想の影が濃く横たわっている。


 北朝鮮系の病院に突然転職した

 ここではまず、Bのプロフィールを追ってみよう。Bは一九六二年生まれ、一九八八年に信州大学医学部を卒業し、N中央病院に勤務した。地元では共産党系の総合病院として有名だ。

「信州大の医学部からは、ほとんど勤める人はいないですね。悪く言えば給料は安いし、仕事はつらい。

 よく言えばマジメ。Bは中肉中背で、真面目なタイプの学生でした。大学では学部の空手部に入っていました。遊んでいるところは見たことがありません。

 本人は共産党員ではなかったと思いますね。当時、民青にいたら、盛んにビラ配りなんかしていたはずですが、Bがやっているところは見たことがありませんし」(大学の同窓生)

 学生時代のBに、取り立てて変わったところはなかったようだ。ただ、他の学生があまり行きたがらない病院を選んだということぐらいだろうか。BをN中央病院に誘った当時の関係者は、


「いい人でしたよ。誠実で真面目な方でした。純粋な医療を信条としている病院だから、選んでくれたのではないですか」

 しかし、この病院との出会いが、Bをして政治や社会主義というものに目覚めさせたのかも知れない。Bは『赤旗』を購読するようになり、やがて共産党に対する批判も仲間内で口にするようになった。

 Bは、この病院で奇妙な事件を起こす。当時、入院中だった難病の患者を、病院側に無断で転院させてしまったのだ。

 その紹介先が、東京・中野区のオウム真理教附属病院だった。オウム真理教内では「AHI」(アストラル・ホスピタル・インスティテユート)と呼ばれていた施設である。「温熟療法」と称して、五十度もあるお湯に信者を入浴させ問題になったところだ。

 BはN中央病院に勤めはじめた直後の一九八九年六月に、オウム真理教に入信していた。N中央病院の事務局長は、この無断転院事件についてこう証言する。

「オウムだったなんて、誰も知りませんでしたよ。入院患者を連れ出してオウムに誘った事件を起こすまでは・・・・・・。


 そのときは当時の院長が厳重注意をして一応残ってもらったんです。まだオウムがいろいろと事件を起こす前のことでしたし、危機感というか差し迫ったものがなかったですから・・・・・・。

 でも本人がいづらくなったのでしょう。消えるように辞めていきました」

 N中央病院を辞めたあとのBは、突然上京し、都内・足立区のN病院に再就職している。このN病院は北朝鮮系の病院として有名で、内科待合室の壁にはいまも「朝日親善」などと書かれた標語が掲げられている。

 院長は高齢だが北朝鮮では有名人で、この人の名を冠した通りや病院が、ピョンヤンにつくられている。一説には金日成・金正日親子の医学的な相談役の立場にもあったのではないか、とされる。

 この夏にも北朝鮮を訪れ、八月下旬に帰国した時には、金正日の糖尿病治療にあたってきたのではないか、と噂された。

 疑惑の「潜入工作員」Bは、このN病院に紹介者もなく突然あらわれて就職し、一九九二年六月から一九九四年三月まで約二年間、勤務していた。前出のN中央病院の事務局では次のように語っている。

「普通だったら新しい病院から、身元や業績確認の連絡がうちに入るはずなんですが、それが一度もなかった。


新卒を採用するわけでもなし、うちにいたときに事件を起こしているわけで、当然問い合わせがあると思っていたんですが、結局ありませんでした。B先生が履歴書で申告していないのか、病院側が尋ねていないのか、理由はいまでもわかりません」

 しかし、さらに不思議なことは、当時すでにオウム真理教に入信していたBが、なぜオウム真理教の病院施設に行かずに、このN病院を選んだのか、ということである。

 このことは、医師としてのBが、N中央病院では内科の医師であったのに、その後のオウムの病院施設では、心理療法や催眠療法、脳に電気ショックを与えるなどの治療法を積極的に取り入れている謎につながっていくかもしれない。


 Bが行った違法行為の数々

 疑惑の「工作員」Bの経歴をたどってきたが、このN病院を退職したあと、一九九四年四月には住民票を静岡県富士宮市のオウム本部に移動、オウム真理教附属病院医師として活発な活動をはじめる。

 Bが教団医療施設で行っていたのは、主として「イニシエーション」と「スパイ・チェック」だったと言われている。


 取材班はこの疑惑の人物Bに何度も接触を試みてきた。最近までBがいたと思われるオウム真理教の施設や、Bの自宅にも足をのばした。両親を通じて、取材の申し入れもしてきた。

 だが、最近になってオウム真理教を脱会したと伝えられるBの現在の足取りは、不思議なことに不明のままである。

 しかし、私たちはその追跡取材の過程で、Bのことをよく知る元幹部信者に、話を聞くことができた。その証言の内容は衝撃的なものだった。

「オウム独自の修行の方法として、ワークというのがありました。ワークの内容は『スパイ・チェック』と『ニュー・ナルコ』(記憶の消去、改変)、それに薬物や音声テープを用いた各種の『イニシェーション』の実施などです」

──「スパイ・チェック」というのは、文字どおり教団内部に潜入したスパイを探し出す方法と考えていいのですか。

「そうです。スパイ・チエックをするときは、チオペンタールなどの麻酔剤を信者に投与して半覚醒状態にした上で、いろいろな質問をくり返します。


『麻原のことをどう思っているか』『教祖のことを、好きか、嫌いか』『おまえは修行以外の目的で教団に入信してきたのではないのか』などのいくつもの質問をくり返して、信者がスパイであるかどうかを確認するものです。

 教団はスパイの潜入を極端に恐れていました。なんでも、麻酔剤が作用している時に話しかけられると、人は嘘をつけないそうで、それを利用してのワークだということでした」

──「ニュー・ナルコ」というのは、どんなふうにやるのですか。

「ニュー・ナルコと呼ばれていたワークは、信者の記憶の消去や改変を行うためのものでした。信者の脳に人為的に電気ショックを与えて、教団にとって不都合な記憶を信考の脳から消したり、変えてしまったりするのです。

 やり方は拷問にも似たもので、たとえば、『あのとき私は殺害現場にいた』と、ある信者が言ったとすると、その患者にもう一度そのことを言わせて、すぐに電気ショックを与えるわけです。

 同じことを何度かくり返して、それでもその信者が同じことを言う場合には、与えるショックを次第に強いものに変えていきます。


 脳は最終的には、それ自体の防衛本能から電気ショックを受けた個所の記憶を封印してしまうか、あるいは、次には電気ショックを受けないような発言内容に変えてしまうわけです」

──そんなことを本当にオウムではやっていたのでしょうか。

「本当でした」

──イニシエーションとは?

「その頃に行われていたのは、LSDなどの薬物を使ったワークです。『修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ・・・・・・』という、永遠にくり返される文句を録音したテープを、一日中独房のなかで聞かされつづける類のワークを指します。

 同じ内容が表示されたパソコンのディスプレイを、一日中見せつづけるパターンのものもありました。つまり、視覚や聴覚に直接、訴えかけることで洗脳を完成させようというものです」

──まさに、洗脳ですね。

「そうです」


 ちなみにここに語られている「スパイ・チェック」は、あきらかに医師法違反だし「ニュー・ナルコ」と呼ばれている記憶の消去は、脳に障害を与えることで傷害罪にもなる。LSDを使ったイニシエーションも、麻薬取締法違反に該当することは言うまでもない。


 子どもをあやすときだけは別人

 証言はさらにつづく。

「Bはそうしたことを医療行為として日常的に平然と行っていました。ときには、『自分だけは特別なんだ』と言わんばかりの傲慢さを見せながら行っていたのです。口数は少なく、無表情のままに、淡々と機械的にやっていました。

 細身でひょろっとした感じのBが、まったく笑いもせずに怒りもせず、感情を表に出さない表情のままで、一心にワークを行なっている姿は、いま思い出しても不気味そのものでした。

 Bは林郁夫の逮捕後、一九九七年に長野県・木曽福島のアジトが設営されると、そこに移って今年の4月まで同じようなことをやっていたと聞いています。

 いまの教団ではBだけが医師としての有資格者で、医療部の実質的責任者をつとめていたようですから。薬物によるイニシエーションも引き続いてやっていたのではないでしょうか」


 この元信者の話を聞いているだけで、何度か、身体に震えがきた。冷静にありのままの事実を聞こうと思っていても、頭のなかでは、つい、その情景を想像してしまうのだ。

 身も凍るような恐怖というのは、こういうことをいうのだろうか。話を聞いているうちに何度か鳥肌が立った。そのBについて、しかし、この元信者は意外なBの側面も証言してくれた。

「彼は家族にだけは優しく、妻や子どもは大切にしていました。Bは特別待遇でしたから、医療部の入っている第六サティアンに個室が与えられており、そこに家族そろって住んでいたからです。

 信者には腹が立つことがあると、『死んでしまえ』『お前なんか生きている資格はない!』『人間じゃない!』などと、ねちねちいじめ続けて、独房修行を平然と強要するような人間でしたが、自分の予どもをあやす姿は人が違ったようで、意外な感じがしてびっくりしたこともありました。

 こうしたイニシエーションなどを指揮指導していたのは、Bと法皇官房の実質的トップだったIでした。現場には彼も必ず列席して、不測の事態に備えるという感じだったのだと思います。


 こうしたI─B─林郁夫のラインは、教団武装化をめざしていた早川─村井のラインとは別に、やはり教団内部の『宗教』とは無関係な、不透明な部分のひとつだったと思っています」

 最近までBのいた長野県・木曽福島町のオウムの医療施設は、元旅館を教団が購入して改造したものである。木曽駒高原に隣接する別荘地の一角で、あたりは豊かな木々に囲まれている。

 建物の外観は和風の作りだが、鉄筋三階建て、総床面積約三百六十平方メートル、敷地面積千三百七十平方メートル。昨年の夏に地元住民による立ち退き訴訟が提訴され、住民によるオウム真理教対策協議会ができている。


 N病院の二年間で変貌したB

 さて、いくつかのなぞが残る。Bは、それまでの内科担当の医師から、どのようにして心理療法や催眠療法の技術を習得して信者の「イニシエーション」や「スパイ・チェック」を行うことになったのか。

 あるいは、N中央病院からなんらの紹介状もなく、どのようにして都内のN病院に移籍することになったのか。このなぞを解く鑓は、やはり都内のN病院にあるのではないだろうか。


 そこに在籍した二年間は、ちょっとふう変わりで真面目な医師にすぎなかったBが、冷徹とも言える、オウム真理教の教団専属医師に変貌を遂げるのに必要なプロセス、必要な時聞と経験ではなかったのだろうか。

 私は、Bの身近にいた元信者の恐怖に満ちた証言を聞きながら、肌が粟立ってはいたが、それらがけっして耳新しい話ではないことも、同時に気づいていた。

 まさに、そこで語られている洗脳の方法は、電気ショック法といい、薬物使用の方法といい、北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつのものだったからである。

 北朝鮮ではこうした洗脳の方法を、朝鮮戦争以降に捕虜となった米兵にたいする洗脳、精神療法の方法として研究していた。

 これまで述べてきた、毒ガス兵器の研究と開発、細菌爆弾の研究と、実はまったく同じ軌道上にあるものだったのである。

 ここで私は、新たな証言を付け加えておかねばならないのだが、この洗脳という人間精神の改造技術は、程度の差や技術の高低はあっても、実際に北朝鮮の工作組織で使用されているものである。

 私は、その一端を「よど号」のハイジャッカーたちのなかにも、一具体例として見出している。


 彼らが渡朝後の数年間、彼らがたびたび頭痛を訴えたり、体の不調を訴えたりしている例があるのだが、それらのなかには、どうしても薬物による副作用、あるいは後遺症としか思えない部分が存在しているようなのである。

 もっとも、彼らの誰も、そのことを信じようとはしないだろうが。

 では、N病院でそうした研究がなされているのかと言えば、そうではないだろう。ただ、この病院が時として北朝鮮の工作拠点だと噂されたり、疑惑の的になるにはそれなりの理由がある。

 N病院では毎年、北朝鮮からの医学生を日本に留学させる研修制度を持っている。この制度にしたがって、北朝鮮から毎年、あるいは季節ごとに数名の医師、医学生が日本に研修にきている、という。

 彼らは日本で最新の医療技術を学ぶために訪れるのだが、北朝鮮本国ではすでに立派な医師であることが多い。同時に北朝鮮の特殊な洗脳技術を持ったプロフェッショナルでもある可能性も高い。

 また、これらの医学生のなかに、本当の工作員が紛れ込んでいないという保証はなにもないのである。だとしたら、ふう変わりな医師Bが、冷徹な特殊医療技術をもった医師に変貌するのに、二年という歳月は十分すぎる時間であったろう。


 どうやら、このあたりが「潜入工作員」Bを誕生させる土壌だったのではあるまいか。そしてBは「工作員」として完成されて間もなく、オウム真理教に出家し、なぜか、麻原側近団のひとりとなった。

 彼がオウム真理教の医療施設でやっていたことは「スパイ・チェック」や「イニシエーション」の部門だった。

 ここにも北朝鮮と金日成主義の双子の姿を見ることはたやすいが、それにもまして、私に戦慄を誘うのは「工作員」Bが麻原側近団のひとりとして、教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの「イニシェーション」を行える立場にあった、ということなのである。

(文申敬称略、以下次号)
■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年十月九日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第七回

国松長官狙撃事件と「よど号」犯・田中義三

「よど号」犯リーダー・田宮高麿が漏らした決定的な一言とは・・・

 犯人はもとより、これがオウム真理教の仕業かどうかも、いまだ不明なままの国松孝次警察庁長官狙撃事件。だがこの事件に関し、驚愕すべき証言が存在していた。目撃された犯人像が「よど号」犯の一人、田中義三容疑者に酷似していた、というのである!



 黒いコートを着た、背の高い男

 地下鉄サリン事件が起きた日から数えて、ちょうど十日後、一九九五年三月三十日の朝、東京・荒川区南千住の高級マンション、アクロシテイFポート(棟)の脇に、黒いコートに身を包んだひとりの男が立っていた。

 最初の目撃証言は、出勤途中の同マンションに住む会社員である。

「ちょうど現場を通りかかった際、その男と出会いました。男は、雨が降っていたのにカサもささずに、Eポートの入り口付近を見ていました。じっと、様子を窺っているというか、凝視しているというふうでした。変な人だな、と思いましたね。

 ひょろっと背が高く、黒いレインコートを着て、黒いズボンをはいていました。左手に三十センチ四方くらいのバッグを持っていたのをおぼえています。

顔はよくわからなかったのです。黒っぽい毛糸の帽子をかぶり、メガネをかけ、鼻まで隠れるくらいの大きな白いマスクをつけていました」

 その日の東京は前夜からの篠つく雨、隅田川に面して建つアクロシティの上空にも厚い雲が垂れ込めていた。しかし、男は左手にカバンを持っただけで、カサは手にしていない。


 出勤途中の会社員は、至近距離からこの男を目撃しているにもかかわらず、その顔を見てはいない。男の顔はすっぽりと帽子やマスクで覆われていたからである。

 当時の報道記事や捜査資料から、この男についての目撃例を再検証すると、この朝、アクロシティFポート付近で目撃された不審な人物の報告は数件。

 そのうち捜査当局がもっとも重視している目撃情報は、この会社員によるものと、やはり同日七時半頃、Eポート周辺を往復していた男についての目撃例。

 さらに、ほぼ同じ時劾頃、ちょうどEポート、Fポートと向きあうように建っているBポートのエレベーター内にいた「ずぶ濡れの男」の目撃例である。Bポートのこの場所からは、国松長官の部屋の中が見通せた。

 いずれも、服装および持っていた所持品等についての目撃内容が一致しているところから、同一人物と見られている。

 それからおよそ一時間後、男は同マンションFポートの、Eポートの玄関が見える小さな植え込みの陰にいた。

 午前八時二十五分頃、隅田川沿いの一般道、Eポー卜玄関横に、黒塗りの車がつけられた。アクロシティEポート六階に住んでいた国松孝次警察庁長官(当時)に対する迎えの車だった。


 インターフォンで秘書官の連絡を受けた国松長官は、すぐに階下に降りた。エレベーターを降りると、ふと彼はその日に限って正面玄関からではなく、すぐその横にある通用口から表に出た。

 秘書官の差し出すカサに寄り添うようにして車に向かった国松長官が、六〜七歩、歩みはじめたちょうどそのとき、突然、銃声がした。

 国松長官はこのとき、どうっ、と地面に向かって倒れながら、わずかに秘書官の方に顔を向けた、という。ほんの少し間をおいて、二発目。三発目。さらに、一瞬の間をおいて四発目。

 この日に限って国松長官が玄関を使用せず通用口を出たことは、雨のせいであったかも知れず、深い意味はなにもなかっただろうが、待ち受ける狙撃犯にとっては、ほんの数メートルとはいえ、ターゲットとの距離を縮めることに作用した。

 狙撃者から国松長官までの距離は約二一・五メートルだった。狙撃の狙いは正確で、一発目は上腹部に命中。二発目、三発目も下腹部、腎部に命中した。

 アクロシティEポート側玄関付近は流れ出した血で染まり、おりからの雨に滲んだ。国松孝次警察庁長官狙撃事件である。



 訓練された特殊技術の持ち主

 早朝に不審な男を至近距離で目撃していた会社員は、職場に到着後、はじめて事件を知った。彼は、あわてて、自宅に「不審な男を見た」と、電話を入れている。

 さらに、この会社員だけでなく、事件前に目撃された不審な男についての情報は、アクロシティの住民から事件後にいくつか寄せられている。

 先に紹介した数例の目撃情報も、それらのうちに含まれるものである。事件直後の、逃走する「犯人とおぼしき一男の目撃情報は、かなりの数にのぼる。Fポートのある住人は、

「銃声で目を覚ました。窓から外を見ると、エントランス付近で男性があおむけになって倒れているのが見えた。腹部から血が流れていた。付近には二人の人間がいて、ひとりは倒れている男を支えていて、もうひとりの男が『そっちだぞ』と大声で叫んでいた」

 当時の管理人のひとりは、

「パン、パン、パン、と三回くらい銃声を聞いた。同僚のひとりが『あれは銃声だ』と叫んだので、管理人棟から飛び出した。銃撃現場のEポートの方から猛スピードで走ってくる自転車の男を見た。


 男は黒っぽいレインコートに、同じような色の帽子をかぶり、口元には白い大きなマスクをしていた。両手でしっかりとハンドルを握り、何度もあたりを見回しながら、管理人棟の前を走り去った。管理人のひとりがマンション西側のスロープまで追いかけたが、見失った」

と証言している。またBポートに住む主婦は、

「銃声が聞こえてからベランダに出た。四回目の銃声が聞こえてから約五秒後くらいにFポートの入口付近から、黒っぽいレインコートを着込んだ男が、すごい勢いで表に飛び出してきたかと思うと、自転車で南側に走り去った」

 この自転車の男が、早朝に目撃されていた黒いレインコートの男と同一人物であることは、もはや間違いがないだろう。

 この事件は、オウム真理教のテロ事件に対して、ようやく強制捜査にふみ切った警察当局に深刻な衝撃をもたらした。捜査を指揮すべき重要な立場にあった警察庁長官が、銃撃されたのである。事件は、ここでオウム真理教の事件と直接に結びつけられ、オウム実行犯説が取り沙汰された。

 捜査当局は、狙撃に用いられた銃器をコルト社製三十八口径リボルバー(回転式短銃)、弾丸は弾の先頭部分が平たく切られたダムダム弾で、国内では入手が非常に困難な種類のものであることを発表した。


 ここから、この銃撃犯人は、海外で特殊な訓練を受けたプロのスナイパーの可能性が高いと見られた。また、射撃の技量、事件後に判明した、逃走経路の計算や自転車を利用するという意表を突いた逃走方法などからも、訓練された特殊な技術を持った人間であることが想定された。

 現場には、捜査を混乱させるかのように、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のものと思われるバッジと韓国のコインが落ちていた。

 事件から四年、この犯人は現在も特定されていないばかりか、事件は迷宮入りに近い。一連のオウム関連事件のなかでも、もっとも謎の多い事件とされている。

 捜査当局が、どうやら現在、容疑者と目しているらしいオウム真理教信者の平田信容疑者についても、平田容疑者がかつてエア・ライフルでインターハイに出場した経験があるからというだけでは、この警察庁長官狙撃事件の「狙撃犯」の謎は解けない。

 同様の意見は、射撃や銃火器に詳しい各方面の専門家たちからも出されている。ライフルと、狙撃に使用された短銃では、その狙撃方法、扱い方がまったく異なるからである。では、この事件の数多い謎を解く鍵は、どこにあるのだろうか?



 射撃の腕は仲間うちでも一番

 事件の起こった一九九五年の春、私はこの連載の以前の回でも書いたように、たびたび北朝鮮を訪れていた。

「よど号」ハィジャック・グループのリーダー・田宮高麿と、いくつか打ち合わせをする必要やインタビューの仕事があったからである。

 田宮をはじめとする「よど号」グループと、取りとめのない話も含めて、さまざまなことを話し合っていた。

 その後、私は彼ら「よど号」グループのあまりにも多い「嘘」と、不誠実にほとんど嫌気がさしたこともあって、訣別を余儀なくされるが、折からのオウム真理教の事件や、この国松警察庁長官狙撃事件についても、何度か話をする機会があった。

 田宮と「よど号」グループは、ちょうどそのころ「愛族同盟」という民族派組織を日本国内でつくることを計画していた。

 もちろん、この発想は彼ら「よど号」グループの発想にもとづくものではなく、朝鮮労働党の指導によるものであったろう。

「愛族」という言葉そのものが、金正日が北朝鮮国内に向けてスローガンとしていた言葉であったからである。


 ただ、私には、それらのスローガンと語られる内容がひどく時代錯誤で、ナチスにも近いファシズムとしかみえなかった。

「やめろよ・・・・・・」

と、私は一度だけ彼に言った。田宮は、そのとき、

「もう、遅い!」

と、叫ぶように言った。私たちの間に、気まずい沈黙が落ちた。そのあとに、田宮はこう言ったのである。

「貴賓室に呼ばれてな、そうやれと言われたら、それには従わざるをえないやろ・・・・・・」

 私は黙っていたが、それがあの国の最高権力者を意味していることは明らかだった。田宮高麿が、少なくとも当時、そうした立場にいたことは確かである。

 彼が語らないまま胸の奥にしまいこんで、あの世に持っていってしまったことは数多いと思われるが、国松警察庁長官狙撃事件にかかわることについても、彼は口に出して言うことのできない何かを知っていたのだと思えるのである。

 もっとも私にしてみれば、当時、オウム真理教の事件についての関心は、ごく普通の一般的な興味を越えるものではなかった。


 しかし、警察庁長官の狙撃事件は、事件の性格や、その意外性からしても大事件だったから話題にのぼらないわけはなかった。その話の途中で、彼は意外なことを言ったのである。

「似てるんだよな。あの身のこなしといい、身軽さといい・・・・・・射撃の腕といい・・・・・・」

 彼が、心配していたのは、同じ「よど号」の仲間である田中義三についてだった。

「射撃の腕は、仲間うちでは田中が一番やった。たしか、あの犯人は自転車で逃げるんだろ。あれは、よっぽど身のこなしが軽くないと思いつかんだろ。そういう意味ではプロだと思うよ。意表を突くことが、一番、大事なことだしな」

 田宮はそのとき、狙撃事件の犯人像について詳しく聞きたがった。私にしても、すでに報道されている以上の犯人像や手がかりを知っているわけではなかったが、知っているかぎりの情報は彼に話した。

 ときどき、なにかを必死に考えるようにしながら、田宮は、結論めいた口調で、こう言ったのである。

「・・・・・・似てる」

と。正直にいうと、私は田宮の心配しているところがどこにあるのか、そのときはわからなかった。なるほど、そうか。あの犯人と田中はそんなに似ているのか、漠然とそんなことを考えていただけである。


 国松長官狙撃事件と「よど号」グループのことが、私のなかでは、しっくりとまだ結びつかなかったのである。


 別の指揮系統で活動していた

 ここにきて、あらためてオウム真理教の一連のテロ事件と、その背景の闇に溶けこんでいる北朝鮮工作組織のつながりに光をあてようとして、私は、そのときの田宮の言葉について、はじめて考えをめぐらせるようになった。

「よど号」をハィジャックした赤軍派が、北朝鮮に渡ってから、あの国でどのように扱われ、どのような訓練を受けてきたかについて、私は『宿命─「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社)という本のなかで、詳細に辿った。

 だから、ここであらためて詳しく辿りなおすことはしないが、彼らが北朝鮮に渡ってから数年後に、金日成主義とチュチェ思想に完全に転向し、隔離された日本人だけの「村」で、軍事訓練をはじめとするあらゆる工作技術を学び、朝鮮労働党の傭兵と化していた事実だけは、ここにもくり返して述べておかなければならないだろう。

 彼らの軍事訓練は、日本人革命村と呼ばれる彼らの居住施設内で、数年にもわたり、朝鮮人民軍の指導教官から直直に行われていた。


 銃火器の扱い、短銃、自動小銃(カラシニコフAK四七だったが)の分解と組み立て、狙撃訓練(これは彼らの「村」のなかに射撃訓練場が建設されていた)、火薬の扱い方、ほかにもありとあらゆる破壌工作の技術と諜報技術が教えこまれた。

 もちろん、それぞれの人間に特性というものはあり、すべてのメンバーがそうした軍事的な技術や工作技術に熟練したかどうかは疑問だが、そのなかでずば抜けて優秀な成績を示したのは、他ならぬ田中義三だったとされている。

 田宮高麿の心配も、根拠のないことではなかったのである。田宮の証言には、もうひとつの重要な意味が隠されている。

 それは、実際上「よど号」グループのリーダーであった田宮が「もしかして、あれは田中ではないのか」という心配を一時でもしたということは、彼にとって、田中の行動は自分の指揮系統以外のものであることを、暗に語っていたことになるからである。

 田中義三は「よど号」ハイジャッカーの一員であり、たしかにグループのメンバーでもあったが、彼の行動は謎に包まれていた。

 多くの場合、彼はピョンヤンで仲間とともに行動することはなく「よど号」グループがヨーロッパでの工作活動の第一線から身を引いた後も、彼だけは海外での活動にとどまっている。


 ひところは、そのことでもってグループ内で対立があったのではないか、彼だけは別の工作活動に従事しているのではないか、という噂も根強くあった。

 別の工作活動を裏付けるかのように、田中は一九九六年三月、偽ドル紙幣を使用した容疑で、カンボジア当局に逮捕されている。

 田宮の発言は、そのことをはっきりと裏付けていた。田中の活動内容について、組織のリーダー田宮は、まったく把握していなかったのである。

 すでに連載の中で何度か指摘したとおり、田宮は、オウム真理教の一連のテロ事件が話題になったときに、

「筋がちがう・・・・・・」

と、言った。田中義三の活動も田宮にとってみれば「よど号」グループとは「筋がちがう」という性質のものだったのだろう。

 出自そのものは「よど号」グループという同じ仲間であっても、活動内容はまったく別の指揮系統の中に位置づけられていたというのが、真相だった。

 わかりやすい例えをすると、彼、田中は「よど号」グループという労働党の《子会社》から、《親会社》に出向した出向社員のようなものであったのだろう。


 その出向社員は、職場の任務や仕事の内容について、当然のように親会社の指示に従わざるをえず、子会社の指示で動くわけではない。

 あくまで労働党という親会社の指示で動かざるをえない。リーダー田宮が、田中のことを案じたのも、そういう事情があったのだろう。

 田宮は、出向した社員、田中義三がどこで、どのような活動をしているかについて、詳しい報告を聞いてはいなかった。

 その田宮のまえに、突然、オウムのサリン事件に引き続いて、国松長官狙撃事件が伝えられた。報道される犯人像は、その田中義三に酷似していた。彼には、私のうかがい知れない、なにか思い当たるふしがあったのだと、思わずにはいられないのである。


 帰国する田中に当局も重大関心

 そして、この田宮の反応のもっとも重要な意昧は、これら一連の事件のなかに、それこそわれわれのうかがい知ることのできない北朝鮮工作組織の影を、田宮自身が色濃く感じ取っていたということの何よりの証明だった、と考えられることである。


「よど号」グループー=北朝鮮は、本誌の連載に対して、すでに何度か声明を出し、抗議をしてきている。連載冒頭に記した「筋がちがう」という田宮発言についても、

「北朝鮮では指揮系統が違うというときは、線が違うという言い方をする。筋が違う、と一言ったのだとすれば、それは、そんなことを俺に聞くのは筋が違う、という意味で言ったのだ」

と言っている。さらに、

「オウムのテロ事件を田宮同志が、外勢(外国勢力)だと言ったのは、アメリカの謀略だ、という意味で言ったのだ」

とも、言っている。しかし、こうした文脈で考えて、どこにオウム真理致事件はアメリカの謀略だ、と解釈できる余地があるのか?

 もちろん、田宮は、狙撃事件の犯人は田中だ、などとは言っていない。

 しかし、もしかして、あの日、雨に煙る朝のアクロシティにあらわれた、黒いレインコートに身を包み、黒い毛糸の帽子を目深にかぶった腕の立つスナイパーが、田中と酷似していると心配したのだとすれば、それは必然的に彼が北朝鮮工作組織の関与を、問わずがたりに語っていた、ということではないのだろうか。


 金正日の「日本破壊工作」の親筆指令から始まった日本攪乱工作は、オウム真理教の一連のテロ事件と輻輳して、日本の警察機構のトップを狙撃するというクライマックスを演出しようとした事件であったのではないだろうか。

 北朝鮮工作組織が、あらゆる重要工作のプロセスに、常にダミーを用意していることは、これまでの工作例でも明らかになっている。

 この事件については、オウム真理教自体が、ダミーの役割をふられていたとしても何も矛盾しない。むしろ、それこそが攪乱工作のひとつの側面を構成している、とも言える。

 実際に日本の捜査当局は、これまでにも北朝鮮の工作活動について、このダミーにいく度も苦汁をなめさせられているはずである。

 さて、ここにきて取材班は、さらに興味深い元オウム真理教幹部信者の証言を得ることができた。オウム真理教の初期の活動と教団武装化計画のなかで、あるところから多額の資金提供を受けていた疑惑がでてきたのである。

 しかも、それはどうやら「偽ドル」だった疑惑が濃い。偽ドルといえば田申義三がカンボジアとベトナムの国境で逮捕された時の容疑だった「スーパーK」がすぐに、思い出されてくる。


 偽ドル=スーパーKを接点として、北朝鮮とオウム真理教は、どのような深層でのつながりを見せてくるのだろうか。

 田中義三は、その逮捕理由となった偽ドル事件の容疑について、この夏、証拠不充分による無罪判決が言い渡された。近く、日本に身柄の送還が予定されている。帰国後の田中の取り調べについては、捜査当局も、重大な関心を寄せている。

(文中敬称略、以下次号)


週刊現代 平成十一年十月十六日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第八回

麻原彰晃の右腕・早川紀代秀と北朝鮮の「闇の関係」

ロシア経由でしばしば平壌入りしていた足跡を掴んだ

 この連載の第六回で報じた北朝鮮の「潜入工作員」Bが、警視庁公安部に逮捕された。北朝鮮と関係の深い都内の病院から、突如、オウム真理教附属病院に転身した男・霜鳥隆二容疑者である。今後、当局によって、オウムと北の闇に光が当てられるのか、ますます話題騒然のスクープ・レポート第八弾。



 ドイツ支部の「偽ドル」疑惑

 衝撃的な証言がある。

「カネなんか、刷ればいくらでもある!」

 オウム真理教の教祖・麻原彰晃が、教団内で資金源について話し合っているときに、突然、そう言い放ったというのである。

「九十三年のはじめ頃だったと思います。なんと麻原は資金源の話をしている最中に、『これは秘密だが・・・・・・』と前置きした上で、こう言ったのです。

『ドイツには精巧な印刷機がある。われわれが入手しているのは中古だが、それで印刷すれば、いくらでもカネはできる。(カネなんて)刷ればいいんだ』と。

 早川(紀代秀)と村井(秀夫)が、そこにいました。偽札についての話は、このときが最初ではなく、このときには早川が動いて、実際に印刷機は手に入れていたようです。

 つまり、偽札作りは教団内部で、すでに実行段階に入っていた。動きはじめていたということです。麻原の言い方からして、まず間違いないでしょう。

 麻原は非常に用心深い性格ですから、中途半端な時には、そんなふうには決して言わない人間です」


 この証言者はオウム真理教の元幹部で、刺殺された村井秀夫「オウム化学技術省」長官の側近のひとりである。

 私たちは、この証言を得て何度か実名での証言を打診したが、今回はその承諾を得られなかった。しかし、その証言内容はきわめて信憑性の高いものであると思われる。つづけて証言を聞いてみよう。

「偽札といっても日本円ではありません。では何だったのか。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が偽造したとして有名になった、あの『スーパーK』だったのです。

 つまりオウムは、この時期に、ドイツで早川が手配した精巧な中古の印刷機をつかって、北朝鮮の技術指導のもとに偽ドルを作っていたか、あるいは北朝鮮にドイツ製の印刷機を納入した見返りに、北朝鮮製の偽ドルを大量にもらっていた、ということです。

 そもそも、オウム真理教のドイツ支部は早川らが積極的に動いて、八十八年の十二月に設立された海外支部のひとつですが、この支部に限ってはきわめて謎が多い。

 布教活動を活発に行っていたニューヨーク支部なとと違って、そうした布教活動などはいっさい行っていないのです。したがって信徒も、日本から派遣された者が二人ほどそこに住んでいただけです。何のための支部なのか、まったく分からない不思議な支部と教団内でも言われていました」


 では、オウム真理教ドイツ支部とは、どのような役割を果たしていたのか。

 ドイツ支部の初代支部長・野田成人は法皇官房の実質的トップを務めていた石川公一と同じく、教祖・麻原の子どもたちの家庭教師も務めていた麻原の側近中の側近、腹心のひとり。現在の教団内部でも指導的立場にある大幹部のひとりである。

「要するにドイツ支部を拠点にして、教団最高機密レベルの秘密ワークが行われていたのです」(前出の元幹部)

 ここで登場する早川紀代秀は、オウム真理教で「建設省」長官をつとめ、ホーリーネームはティローパ正悟師。側年十月、熊本県波野村のオウム教団による土地取得にからみ、教団弁護士・青山吉伸らとともに国土利用計画法違反の容疑などで逮捕されたこともある。

 また、北朝鮮との関係がもっとも深いと見られていた人物である。しかしこの早川は、これまで北朝鮮との関わりについては、いっさいなにも話しておらず、取り調べでもそのことについてだけは、いまも黙秘をつづけているといわれている。


「キエフ経由で北朝鮮に行っていた」

 証言者は、その早川紀代秀の北朝鮮との関係についても重要な証言をしてくれた。


「ドイツ支部がそうした特殊な支部であった傍証は、ほかにもあります。それは彼の渡朝の事実です。早川自身は取り調べでも公判でもこのことはいっさい言っていないようですが、頻繁にウクライナの首都・キエフに行き、そこから北朝鮮に入っていたという事実です。

 ロシアと北朝鮮の国境地帯にある豆満江の経済特区についてもよく口にしていました。豆満江という地名は、麻原を囲んで村井、早川、上祐(史浩)ら側近が集まった席でも何度も挙げられていました。

 ロシアから大量に買いつけた武器や戦車、薬物などを、ここから船で税関を通さずに日本まで密輸するための謀議だったと思います。いずれにせよ、早川が密命を帯びて北朝鮮に渡っていたことは間違いありません」

 これは、オウム真理教の元幹部信者の口から出た、早川紀代秀の北朝鮮渡航についてのはじめての証言である。

 北朝鮮との関係について、さまざまな疑惑が語られてきた早川に、その具体的な誕言が教団内部からはじめて浮かび上がってきた。

 さらに取材班は、この証言を検証する過程で、もうひとつの興味深い証言と遭遇した。偽ドル鑑別機の販売を手がける、日本の某商社の幹部社員の証言である。


「九十二〜九十三年頃だったでしょうか。われわれもドイツのミュンヘンで、紙幣の印刷が可能な高性能印刷機の取引が行われたという事実は確かに把握しています。

 取引された機械は2台で、ひとつは新品で、もうひとつは中古品でした。このとき新品を購入したのが北朝鮮系の商社で、もう一台の中古品の方がオウムです。

 当時、ミュンヘン市内で、その北朝鮮系の商社とオウムの両者が、すぐ近くにオフィスを構えていました。ところが、この印刷機の取引があった直後に、その両方のオフィスが、ほぼ同時に撤退してしまったのです。

 購入直後にあわてて足跡を消すように両者とも消えてしまったので、不思議な印象を受けたのをおぼえています。オウムがその印刷機をどこで活用しようとしたのかは定かではありませんが、彼らが実際に偽ドルに関係していたのは、ほぼ間違いないでしょう。

 というのは、オウムの関係者が私たちのところにもきて、法外な報酬を提示した上で、偽ドル鑑別機の購入と『偽ドルの鑑別の仕方を詳しくレクチャーして欲しい』と要請してきたことがあったからです。私どもでは、非常に怪しい話だったので、いっさい協力はしませんでしたが」



 早川がかけた四つの電話番号

 早川紀代秀の頻繁なロシア渡航については、これまでの膨大なオウム報道のなかでも何度か取り上げられてきた。ロシアで早川が武器の購入や軍需産業の関係者と接触していたこともすでに分かっている。

 われわれ取材班もモスクワで、そうした関係者のひとりドミートリヴィッチ・シュミロフ(六十歳)に話を聞くことからはじめた。

「早川とは二年くらい付き合いがありました。当時の私は東欧諸国を相手に貿易会社を経営しており、工作機械などを扱っていました。

 早川は自分で私のところに電話してきて、相談を持ちかけてきました。その相談というのはカラシニコフ自動小銃を作っている工場を紹介して欲しいというものでした。

 日本でカラシニコフ銃を作りたいというのが、彼の希望のようでした。日本には兵器のコレクターがたくさんいるので、それはいい商売になるのだ、と言っていました。

 その後も、ヘリコプターを買いたいと言ってきたりしましたが、結局、ヘリコプターはほかのルートでチェコ人から手に入れたようでした。


 早川の興味は広範な分野にわたっていましたね。とりわけ物理学についての興味は相当なものでした。テスラー・ジェネレーターもそのひとつです。

 これはエネルギー形態を別のものに変換させる機材で、少量のエネルギーを大幅に増幅させることができるため、地球の電磁波にも影響を与え得るといわれています。早川はこれに異様に興味を示し、テスラー協会を日本に設立したいと言っていたのをおぼえています。

 早川には宗教家のイメージはまったくなく、彼と一緒に来たオウムの村井というメンバーが、食事などにも厳格なルールを課していたのとは対照的でした」

 しかし、シュミロフは早川と北朝鮮との関係については知らない、という。私たちは、元オウム幹部の証言に出てきたウクライナのキエフという街に興味を引かれた。キエフでのビジネスについても質問したが、これも彼は知らないという。

「北朝鮮とのビジネスの仲介やコンタクトを求めてきたことは一度もありませんでした。キエフ? キエフでのビジネスについては知らない」

 では早川はキエフで何をしていたのだろうか? わたしたちはキエフでの早川の足跡を追った。キエフは旧ソ連邦で第三番目の都市、ドニエプル河の流域に発展した縁の街として知られる。


 私たちはこの取材の過程で、当時の早川に関係するデータを別のところから入手していた。注目されたのはメモ書きの数字である。

705723××377
705723××922
705724××225
705723××238

 どうやら電話番号らしい。最初の705は、国際電話の国番号と思われる。ウクライナの国番号を調べてみると確かに符合する。

 取材班は電話をかけることを試みた。最初の数字。電話が通じた。しかし、誰も出ない。次の数字。女性の声が電話口に出る。見ず知らずの人と話をする気はない、と切られてしまう。

 さらに番号をプッシュする。四十代くらいの女性がでる。ウクライナ語だ。レーナと名乗った女性は一時、何人かに部屋を貸していたという。どうやらアパートのようなものらしい。

 事情を説明すると、早川が連絡をとっていた可能性のある人物について、必死に記憶を呼び起こしてくれた。


「その人物(早川)が連絡を取りそうな人物といえば、当時、部屋を貸していた中年のロシア人夫婦かもしれません。そう、七〜八ヵ月くらい住んでいたと思います。あとは、そうですね、家族連れだったり、シンガポール人だったり・・・・・・」

 しかしこの女性から、私たちは貴重な情報を聞き出すことができたのである。しばらく考えながら彼女は、その中年のロシア人について、明確な記憶を語ってくれた。

「そうです。彼はモスクワ通りの会社に勤めていました。武器や軍事関連の資材を扱っている会社でした。会社の名前は、そう、たしかRといいました・・・・・・」


 核兵器解体の拠点・ハリコフ

 そして、私たちは、そのときはじめて気がついたのである。この電話はキエフに通じているのではない!キエフの街にも確かにモスクワ通りは存在するが、話の感じはどうやらキエフではないのである。

 Rという会社の場所を聞き出そうとしても、会話のなかにドニエプルの大河が、存在していない!

「失礼ですが、そこはどこでしょうか?」返ってきた答えは「ハリコフですよ、ウクライナの・・・・・・」いぶかしげな相手の表情が電話の先に見えるようだ。


 ハリコフ! ハリコフは、ウクライナの工業都市。第二次世界大戦前はここにウクライナの首都がおかれたこともあったが、今では軍需産業を申心とした工業都市として知られる。さらに、キエフと、このハリコフには、核兵器の解体のための研究施設があり、関連産業が集中している。

 ソ連邦の解体後、ロシアでは大量の核弾頭やミサイルが不用品となった。それは各国の支援のもとに廃棄されようとしているが、その特殊な工業施設の一方の中心が、このハリコフだった。

 日本政府もこの研究施設や廃棄工場の軍病院にたいして、核兵器解体要員の健康のための医療機器供与を行っていたはずである。そのハリコフに、早川がたびたび連絡をとっていた人物がいた。

 ここで思い出されるのは、オウム真理教のサリン事件が引き起こされる半年ほどまえの九十四年八月の中頃に、ミュンヘンで発覚したプルトニウムの密輸事件のことである。

 空港で押収されたプルトニウムは約三百グラム、いわゆる核物質の密輸事件で摘発された事件の中で最大量のものだった。

 高純度プルトニウムや濃縮ウランの密輸事件は、この当時、ドイツ、ミュンヘンを中心として頻繁に摘発されていた。九十年には四件にすぎなかったが、この事件の前年には二百四十一件に上っている。


 また九十四年五月に摘発されたバーデン・ビュルテンベルク州の実業家の場合は、北朝鮮から一億ドルにのぼる購入資金の提供を受けていたことも分かっている。

 そして、それらの核物質の大半が、どうやらロシアやウクライナ、カザフスタンから流出していると考えられているのである。

 早川紀代秀のウクライナヘの頻繁な渡航は、こうした事実とどこかで関係があったのではないだろうか?


「第二経済委員会」が窓口か

 一九九五年、ピョンヤン。「よど号」ハィジャック犯のリーダー・田宮高麿は「早川の北朝鮮渡航の背景に、『よど号』グループもどこかで関係があったのではないのか?」という私の質問に、

「筋がちがう・・・・・・」

 と答えた。では、この「筋」とは具体的にはなにを意味していたのだろうか。その意味するところが、工作組織の指揮系統の違いであることは、これまでの連載のなかでも何度か触れてきた。

 では、その組織的な系統はどこを意味していたのだろうか。北朝鮮の対日・対南(対韓国)工作の指揮系統で、これまで知られている部署は四系統である。


一、人民軍偵察局
一、対外情報調査部
一、社会文化部
一、労働党統一作戦部

 いずれも秘密工作、破壊工作に従事した実績をもっている。このうち対外情報調査部は、情報収集、諜報活動が中心と見られているが、社会文化部と作戦部は対日・対南工作機関、さらに工作員の養成機関とされている。

 情報調査部、文化部、作戦部は、朝鮮労働党の直属機関で、金正日が最高統括責任者である。

 ところが、ここにまったく別系統の組織として「第二経済委員会」と呼ばれる組織が九十年代になって浮上してきた。この第二経済委員会とは、労働党中央の機械工業部に属し、次のような内部構成で運営されている。

 総合局──企画、予算編成、エネルギーと資材の調達
      分配。
 第一局──通常兵器(小銃、機関銃、弾薬、手榴弾)な
      どの生産供給。
 第二局──戦車、装甲車など。
 第三局──高射砲、ロケット砲など。
 第四局──ミサイル、・ロケット類の生産など。
 第五局──化学兵器、サリン、タブン、ソマンなどの
      神経性毒ガスの生産。
 第六局──海軍の船舶など。
 第七局──軍事通信・航空を管轄。


 対外経済総局──兵器やその部品、資材、原料などの
         業務担当。

 対外的には「龍岳山貿易」などの名前で活動することがある。

 つまりこの「第二経済委員会」とは、その名前とは一見無関係の兵器・軍事物資の生産と供給を担当している部署だが、その業務遂行上の必要に応じて、ある種の工作活動にも従事する。

 中朝国境に近い江界(カンゲ)という町に有名なトラクター工場があり、金日成・金正日の現地指導が頻繁に行われていた。この工場なども、この「第二経済委員会」に属し、実態は軍需工場だとされている。

 田宮高麿は、早川の北朝鮮渡航について「IC機器の関係だろう」と言った。「朝鮮がそうしたものを必要としているのは事実や」とも。

 そしてさらに、そうしたIC機器やある種の軍事物資について「よど号」グループの運営する「プロジェクト二十一」なる貿易総合商社が、その任務を担い切れなかったことも語っていた。

 プロジェクト二十一の代表を務める小西隆裕が、あるとき悔しさを込めて語っていたことがあったのだが、旧ソ連邦から廃棄された潜水艦や戦車を彼らが北朝鮮に輸入しようとして失敗した、という経緯もあったようである。


 オウム真理教の早川紀代秀が関係をもち、その窓口としていたのは、やはり、この軍事物資を統括している「第二経済委員会」であった可能性がもっとも高いのである。

 そこでは「よど号」グループがいみじくも語ったように、IC機器、および核兵器関連物資の調達がもっとも重要な任務であって「よど号」グループに担い切れる範囲を越えていた。そこにこそ早川が入り込む余地もあったように思われる。

 そして、これは「筋がちがう」という田宮の言葉どおり、はっきりと「よど号」グループの指揮系統とは、その「筋」、その任務を異にしていた。

 偽ドル、プルトニウム、戦車、原潜「よど号」・・・・・・そして、ウクライナ、ハリコフ、ピョンヤン、ようやく闇のつながりに一筋の光が当たりはじめたようである。

(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年十月二十三日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第九回

「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編

村井秀夫はなぜ口封じされたのか サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編

 犯人の徐裕行は、逮捕後「上祐、青山、村井の3幹部のうち、誰でもよかった」と供述していた。だが、これは明らかな嘘だった。やはり、村井こそを抹殺しなければならない、相当の理由があったのである。そこには、これまでの報道からは想像もできなかった、恐るべき国際陰謀が隠されていた---。



 村井だけを待ち続けた暗殺者

「あの事件だけは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の仕業だ」関係者のほとんどすべての人間が、口を揃えて同じことを言う。法曹関係考、マスコミ、捜査関係者、再検証のために取材で接触した事件の周辺の人々。

 しかし、その「真実」はこれまで噂の領域を出ることはなかった。どこかで、真相が意図的に隠蔽されている、この事件にはそんな印象が圧倒的に強い。

 その事件とは、オウム真理教一連の事件のなかでも、もっとも不透明で謎に満ちた、村井秀夫刺殺事件のことである。

 村井「オウム真理教科学技術省」長官はなぜ殺されねばならなかったのか? 事件直後から噂が飛び交ったように、刺殺事件は村井にたいする口封じだったのだろうか? ただ、それだけだったのだろうか? 実行犯・徐裕行の背後には、事件直後から暴カ団関係者の介在と、北朝鮮工作組織の影が色濃く噂されてきた。

 オウム真理教の一連の事件を、北朝鮮工作組織との関係のなかで再検証しようとするこの連載のなかで、この村井刺殺事件はどうしても避けて通ることのできない事件のひとつである。


 さらに言えば、オウム真理教の一連の事件の背後に横たわる、これまで明らかにされてこなかったもうひとつの隠された真実を解明する、重要な手がかりを与えてくれる事件であった、と言うこともできる。

 事件の再検証をはじめるにあたって、あらかじめ述べておきたいのだが、一回の記事だけではそのすべてを書き尽くすことは難しい。

 何回かにわたって作業をつづけるが、この事件が、それだけ深い闇と陰謀に彩られているのだ、ということだけは冒頭に述べておいてもいいだろう。

 事件が起こったのは一九九五年四月二十三日、地下鉄サリン事件から、ほぼ一ヵ月後。東京・南青山にあった「オウム真理教総本部」前、多くの報道陣、関係者、さらに衆人環視の真っただ中で引き起こされた事件だった。

 事件前日の四月二十二日朝、徐裕行は足立区の自宅を出てタクシーを拾うと、まもなく運転手に「ここらへんで包丁が買えるところはないか」と聞いている。

 近くの金物屋で刃渡り二十センチの包丁を買った。値段は五千円だった。その足で南青山の教団総本部前を下見。渋谷に出て喫茶店に入り、アイスミルクを注文。しばらくして店を出るが、すぐに同じ店に入り、夜まで時間を潰す。その夜は渋谷・道玄坂のラブホテルにホテトル嬢と泊まった。


 翌日午前十一時、そのラブホテルをチェック・アウト、南青山のオウム真理教総本部前に到着したのは、それから約二十分後のことである。

 近くのコンビニでパンを買い、ふたたび総本部前に。それから約九時間、徐は本部前でじっとひとりの男がそこから出てくるのを待ちつづけた。

 この間、徐がその場を離れたのは、夕方になって近くのラーメン屋に入ったときだけである。辛抱強く、この暗殺者はただひたすら「男」の出てくるのを待っていた。つまり、科学技術省トップ・村井秀夫が彼の前に姿を見せるのを、である。

 彼がたったひとりの男、村井を待ち続けている間に、午前十一時二十六分、上祐史浩緊急対策本部長が外出先から教団本部に戻ってきた。徐の前を通り過ぎるが、彼は手を出さない。徐が本部前に到着して数分後のことである。

 午後二時三十八分、これも教団の幹部だった青山吉伸弁護士が外出先から総本部へ戻ってくるが、徐は動こうとしない。その十分後、ふたたび上祐が外出のために姿を現す。しかし、徐は今度も動こうとしない。

 そして夜八時三十六分、村井秀夫が教団総本部かち姿を現した。この日、村井は普段つかっていた通用口が閉まっているのを知って、本部の正面玄関に姿を見せたのである。


 徐裕行の身体がゆっくりと動いた。手にしていたアタッシェケースから包丁を取り出すと、ゆっくりと向きを変えた。テレビクルーのまばゆいライトの中へ暗殺者は平然と入っていった。

 村井の腹部に、買ったばかりで値札がついたままの包丁が突き刺さっていったのは、その数秒後のことである。


 大きな隠すべき真実が存在した

 犯行後の徐は、興奮した顔色を見せるでもなく、平然と立っていた。駆けつけた警察官に身柄を押さえられても終始、その態度は変わらなかった。任務を果たし終えた暗殺者の、充実感と虚脱の中にいたような印象を受ける。

 この経過から、はっきりとすることは、暗殺者・徐が明らかに上祐でも青山でもなく、ただひたすら村井秀夫ひとりをターゲットにしていた、ということだった。逮捕直後の供述で徐裕行は、

「自分ひとりで考えてやった。テレビでオウムの報道を、見て義憤にかられた。このままオウムを放置しておくと危険だと思い、誰でもいいから幹部を痛めつけようと思った」


と言っている。しかし、この供述を信用した人間は、捜査関係者のなかにも誰一人としていないだろう。誰でもよかったというのは、明らかに事実と違う。犯行後しばらくして、徐は所属団体について供述を変える。

「所属団体は伊勢市の神洲士衛館」

 右翼団体である。しかし、この政治結社はなんの活動もしていなかった。前年、九十四年の十月に三重県選挙管理委員会を通じて自治省に政治団体の設立届が出されてはいたが、街宣車もなく、事件の五日後には解散届が出されていた。さらに供述は、

「山口組系暴力団・羽根組(三重県伊勢市)幹部の上峯憲司から指示されたものである」

という内容に変えられた。警視庁は事件から二十日ほどたった五月十一日、羽根組幹部上峯憲司の逮捕に踏み切る。しかし、上峯憲司の公判廷は一審、二審とも無罪。裁判所は次のような判断を明らかにした。

「徐の供述には主要な点で不自然、不合理なところがある。・・・・・・被告(上峯)が徐に殺害を指示したのであれば、それは絶対に組との関係が明るみに出ないように配慮すべき極秘指令であるはずである。刑事責任を免れようともくろんでいた被告が、わざわざこのような指示をする合理的な理由は見出しがたい。


・・・・・・(犯行を指示されたとする)日付に関する(徐の)供述変遷も非常に不自然で、被告からの話が徐にとってはさして重要なことではなかったのでは、との疑いをぬぐえない。・・・・・・徐の供述には重要な疑問点があり、ほかに被告の犯行への関与を推認させる有力な証拠もない・・・・・・」

 ここで裁判所が示した徐の供述にたいする疑問は、この事件の経過を検証したときに、まったく正当なものである。上峯は、この村井秀夫刺殺事件に、どうやらまったく関係していない。

 では、なぜ、徐は「指示された」という供述をし、羽根組との関係を強調したのだろうか。私がたちどころに思い当たる理由は、ふたつである。

 ひとつは取り調べにあたった捜査員による誘導。この「誘導」は、これまでにもいくつかの事件で大きな問題になったケースがある。人は自ら納得のいく絵しか描かない。

 逮捕直後の徐の供述、単独犯説に捜査陣がごく普通に疑問を持ったときに、この供述を引き出す土壌は用意されていたと言えるだろう。


 さらに、もうひとつ、徐がなぜその誘導にのったのかという点については、テロリスト・徐裕行に、もっと大きな隠すべき真実と事情が存在していた、ということにほかならないだろう。大きな隠すべき真実の前で、人は小さな嘘を罪の意識なく平然と言ってのけることができる。

 言葉で説明をはじめると何万言も費やさなければ、この事情を説明し切ることは容易ではないのだが、私は「よど号」のハィジャッカーたちの嘘と北朝鮮の虚構を解読する作業のなかで、なんどとなく同じようなケースに遭遇した。

 暴力団関係者に指示を受けた、という当局の誘導は、実行犯・徐裕行にとって、天の助け、とも思えたはずである。さて、では徐が本当に隠したかったことは何であったのか?


 親友の父親は朝鮮総連幹部

 実行犯・徐裕行の背後には、明らかに北朝鮮工作組織の影がある。私たちは、あらためて徐の生い立ち、周辺の事情を再検証した。

 関係者の話もできるかぎりの範囲で、あたり直した。さまざまな側面と複雑な背景、事情が浮き彫りにされてきたが、それらのひとつひとつをここでレポートしている余裕はもちろん、ない。


 私が知りたいのは、そして明らかにしておきたいのは、背後で蠢く北朝鮮工作組織の関わりだけである。

 徐の背景には、いくつかのあからさまな北朝鮮工作組織の人脈が配置されている。東京・五反田のコリアン・クラブ「M」に徐が何度か顔を出していた、という話。

 ここのママの姉にあたる人物が、北朝鮮の工作員・辛光洙と同居していた人物であるという事実。また、この店のママの所有していた家屋に、徐が仲間3人と同届し、住民票を移していたという事実。

 しかし、これらの複雑に絡みあった事実の背後に、なにかが潜んでいるという予感はあるにはあるのだが、どうやら、それらはこの事件の本筋ではない、という印象がつきまとう。「M」のママはこう証言する。

「徐のことでは、うちは大きな損害を被った、事件が発覚するまで、徐の名前も知らないし、顔も見たことがなかった。店にも来たことはないですよ。空き家になっていた世田谷の家を、Mという息子の友人に貸していたのは事実です。家賃は十万円でした。

 それがひとりでは家賃を払いきれないというので、もうひとり、Tという友人と二人で借りたいと言ってきた。断る理由もないでしょう。ところが徐のことになると皆目わかりません。


 あとから、MとT二人のうちのひとりが、徐を連れてきた、ということを知りました。しかも、住民票まで移していた、という・・・・・・。

 おかげで、世田谷の家がテレビに映し出されるわ、マスコミの人たちが押し寄せるわ、大変でしたよ。住民票が移されていたお陰で、大変な目にあいました。

 わからないことばっかりです。逆になにかに利用されたのかもしれません。公安が流した情報が書いてある雑誌をもって、公安が聞き込みにくる。マッチポンプみたいなものですよ」

 しかし、さらに取材と検証をすすめる過程で私たちは、徐が一緒に住んでいた友人Mの父親が、朝鮮総連の幹部だったという事実に突き当たった。

 さらにタクシーの運転手をしていた徐の父親もまた、朝鮮総連と関係の深い人物であったようである。

 しかし、だからといって、これらの登場人物が、徐の犯行の背後に直接なんらかのかたちで関係しているということはできない。

 ただ、私はこうした事実の積み重ねのなかで、徐裕行の生い立ちにおける北朝鮮との深い関わりを見る。



 北朝鮮へ渡った形跡がある

 徐が世田谷で同居していた友人のひとりTは、その後別の事件で逮捕され、村井刺殺事件との関係を追及されている。そのTの弁護士の話は、大変興味深いものだった。

──徐は朝鮮学校の出身だという話があるのですが。

「そのはずです」

──足立区の工業高校出身という話もあるのですが。

「それは違うでしょう」

──親しくしていた友人のひとりの父親が、朝鮮総連の幹部だった、ということについてはどうでしょうか。

「あっ、やっぱりそうでしたか? じつはね、われわれもあの刺殺事件の裏には、なにかが絡んでいたのではないかと考えていたんです。いろいろな状況から考えると、ほぼ九十%はそうではないか、と」

──具体的には?

「上峯の裁判についてはご存じですね? 徐は他の誰かの名をかたることによってカモフラージュしたんだと思いますよ。


 私も函館(刑務所)に行って徐に会ってきましたが、凄い形相で睨みつけるような表情をしていた。大胆でしたたかな人物ですね。

 出廷したときも裏の関係については発言を拒否した。なぜ拒否してなにも言わないかというと、彼は役目を終えたからだと思います。目的を果たした以上、しゃべる必要はない。それに一度、上峯の名前を出してしまっているしね。

 ただ、まだ言うことができないことがたくさんあるんですよ。いずれ、あきらかにしなければならないことだとも思いますが・・・・・・」

徐の背後関係について、誰もが確信めいた疑惑を持っている。しかし、そのことは深い闇のなかに封印されたままで、あからさまに語ることを誰もが躊躇する。

 しかし、ここで私は、こうした回りくどい言い方をやめて、はっきりと書いてしまいたい。徐裕行は、北朝鮮工作組織の関与のなかて、村井刺殺という犯行におよんだ、と。

 いくつかの傍証は、これから徐々に出していくことができるだろう。ただここでひとつだけ明らかにしておけば、徐の経歴のなかで、一時期、まったく足取りがつかめない空白の部分が存在する。


 高校中退後からイベント関係の会社を設立するまでの数年間の空白である。この空白の数年間、そのうちの大部分を彼は北朝鮮に渡っていた形跡があることである。そこで、彼は北朝鮮の思想と工作の技術を学んだのではないだろうか。

 くり返すことになるが、この訓練と工作技術を学んだ人問は決して、自分の思想性を表面には表さない。それが金日成主義の原則であるからである。そして秘めやかに地下活動に従事する。工作員が自分の思想性を露にしてしまえば、それはもはや工作員たりえない。

 徐裕行も、イベント会社を設立してからの友人たちの描くプロフィールのなかに、微塵もその思想的な側面を滲ませていない。政治の話などしたことがなかった、という証言だけが集まってくるのである。

 しかし、その徐が、事件の数週間前から突然「オウムには気をつけろ」と語りはじめた、という証言が複数得られている。このとき、徐はすでに、ある密命を帯びていたと考えるのが分かりやすい。


 北朝鮮が危惧した「秘密」の暴露

 渋谷・道玄坂。事件の前日、徐は上峯被告と連絡を取り合ったことになっているが、北朝鮮工作員のやり方として、これはきわめて不自然なものにうつる。


 北朝鮮工作員のやり方から見て、すぐに足のつくような電話や接触による連絡などは、取るはずがないからである。

 徐は犯行直後の供述で「自分の考えでやった」と、単独犯行を匂わせる供述を行っている。私には、むしろこの供述のほうに、半分の真実が隠されているように見える。

 なぜなら金日成主義の工作員は、獲得すべき任務の内容を指示されるが、その具体的なノウハウについては、通常、指示を受けないものであるからである。

 そのために高度な工作技術──破壊工作の技術であれ殺人のための技術であれ、領導芸術と呼ばれる誘導の技術もふくめて、高度な訓練を受ける。自分の思想性、主義主張を隠したままで、実質のともなった工作を完了するために、この訓練は必須である。

 徐はその意味で、きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員であったのである。彼の並はずれた忍耐力も、それを証明している。

 では、なぜ村井秀夫だったのか? ようやくこの謎を解くことをはじめなければならないだろう。九十五年四月、事件の数日前に村井「才ウム科学技術省」長官は、テレビに出演し、次のようなことを語っている。

「使える金は一千億ある」


「地下鉄事件で使われたのはサリンではなく、別のガスだ。アメリカの研究所もそのことを証明してくれる」

 この放送を聞いていたある関係者は、一瞬、身が凍ったという。村井が秘密にせねばならないことを話してしまうのではないのか、と。

 村井は、周辺の人間の印象として、ひどく生真面目で、誠実な人柄だった、という証言がきわめて多い。それは村井という人間の気の弱さをも象徴しているだろう。

「村井がしゃべってしまう」その危機感をオウム幹部の誰もがいだいた。そして、その危慎をいだいたのはオウムの幹部たちだけではなかった。オウム事件の背後に蠢く北朝鮮工作組織も、そのことにきわめて強い危惧を持っただろうことは想像に難くない。

 まさに村井が話し出したふたつの事がらは、先週号で指摘した、偽ドルを含むオウム真理教の資金ルート、さらにはサリンの入手ルートにつながるものだった。

 そして、さらに、それらふたつ以外に、現在にいたっても秘匿されたままの第三の秘密、どうしても隠し通さなければならない、さらに深い秘密につながっていくものだった。その第三の秘密に村井がふれかねない危慎を、北朝鮮側にもいだかせるものだったのである。

(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年十月三十日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第十回

「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 中編

サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 中編
村井秀夫が極秘指令
「原発の機密をスパイせよ!」

 村井刺殺犯の徐裕行が、高度に訓練されたテロリストであることは、先週号で指摘した。では、村井はなぜ口封じをされなければならなかったのか。その謎を解くカギとなる驚くべき事実があった。村井は信者たちに、日本各地の原発に労働者として潜り込み、スパイ活動を行うように指示していたのである。



 村井が口をすべらせかけた秘密

 あまりにも多くの謎に満ちた、オウム真理教「科学技術省」のトップ・村井秀夫刺殺事件。実行犯・徐裕行は逮捕後の取り調べで「上祐(史浩)でも、青山(吉伸)でも誰でもよかった」と供述している。

 しかし、当日の徐の行動を詳細にたどってみると、この供述には多くの矛盾点が浮かび上がる。やはりこの暗殺者は、ターゲットを明確に村井秀夫「科学技術省」長官に置いていた。

 では、なぜ村井秀夫だったのか。村井でなければならなかったのか?

 刺殺事件の直前にテレビに出演した村井が、ふたつの重要な秘密について口をすべらせかけたことは前回の記事の中でも述べた。つまり一千億円という途方もない資金の所在についてと、地下鉄サリン事件で用いられた毒ガスは、じつはサリンではなかった、という驚くべき証言である。

 教団武装化を推進しはじめたオウム真理教の資金源に、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のからむ偽ドル疑惑があることはこれまでにも指摘してきたが、第二の「サリンか、ほかの毒ガスか」という疑問については、もう少しだけ言葉を足しておかねばならないだろう。


 村井は、地下鉄の毒ガス事件で使われたガスの種類について「サリンではなく別のガスだ。アメリカの研究所でもそのことを証明してくれるはずだ」と、確信をもって話している。この言葉が本当に意味していたのは、どのような内容だったのだろうか。

 一九九四年六月二十七日、長野県松本市、午後十時四十五分、突然散布された毒ガスで住民はパニックに陥った。

 蒸し暑い夜で、窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた人も多い。この事件では窓が開けらかていたかどうかが、生死の分岐点になっている。マンションの窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた住民は、そのために命を落としたのである。

 この毒ガスは、空中を漂い、広がり、薄められてなお人の生命を奪った。その毒性が、きわめて強力だったことを、この「松本サリン事件」は教えている。


 別の「製造元」のサリンか?

 その事件発生の一時間半くらい前、事件の現場から二百五十メートルくらい南西に位置する開智二丁目付近で、帰宅途中の会杜員は奇妙な光景を目撃した。

「銀色の宇宙服のようなものを着ていました。夢を見ているようで、不思議な光景でした」


 この銀色をした宇宙服のようなものが、毒ガスに対する防護服であったことは明らかだが、このことは毒ガス(サリン)散布の実行犯たちが、あらかじめ毒ガスの強力な毒性について、正確に認識していたことを示している。

 純粋なサリンは常温では液体状だがきわめて揮発性が高く、ほぼ瞬時に拡散してしまう。その霧粒が呼吸器に入るとほぼ即死状態に近く、一粒の霧粒が肌に付着しただけでも、毛穴から体内に浸透し数十分以内に死亡する、とされている。

 ところが、翌年三月二十日に引き起こされた東京での「地下鉄サリン事件」では、複数の実行犯の誰もがこのような防護策を講じていない。さらに、散布方法についても傘の先で「サリン」を入れた袋を突き破るという杜撰な方法がとられている。

 また地下鉄車内の床に濡れたような痕跡すら残している。地下鉄の車内およびプラットホームという閉鎖空間では、松本サリン事件の例からすると、さらに被害の規模は大きくなるはずだった。

 ところが、数千人にのぼる被害者を出したとはいえ、地下鉄の事件では、その規模と程度には大きな隔たりがある。


 このことから分かることは、地下鉄事件で使用された毒ガスが、世間一般に伝えられているように「サリン」ではなく、まったく別種の毒ガスであった可能性が濃厚なのである。

 それがVXガスあるいはタブンなどの別種の毒ガスであったのかは、村井の口が封じられてしまった以上、オウム真理教側から証言をするものは誰もいない。

 しかし、少なくとも事件の状況から見ただけでも、松本市で散布された「サリン」と、地下鉄事件で使用された「サリン」は、まったく別の製造元でつくられた、あるいは純度に大きな隔たりがあった、と考えられるのである。

 刺殺される直前に、村井が語りはじめた「まったく別のガスだ」という言葉は、そのことを指し示していた。しかし、村井はそのことの詳細を語ることなく、一命を落とした。

 なぜなら、オウム真理教内で「サリン」製造責任者だった村井のその発言は、さまざまな不都合を関係各方面に呼び起こすことになるからだ。製造元が違うということが明らかにされれば、その製造元がどこか、どこの国かが問題にされるだろう。

 これは、当の製造国だけにとどまらず、日本政府にとっても利害関係は奇妙に一致していた、と考えざるを得ないのである。


 それが国内で製造されたものではない、とされれば、製造国、搬入ルート、入手ルート、さまざまな部分が一挙に複雑になり、国際謀略の壁にぶつかってしまうことは必至である。

 オウム真理教第七サティアンのサリン・プラント設備では、高純度のサリン製造が不可能とされつつも、この問題が曖昧な形で封印されているのは、どうやらそのあたりに原因がありそうである。村井の発言は、その封印されるべきストーリーを一挙に解きかねない危険性を持っていた。


 専門家も「すごい資料だ」

 しかし、村井が知っていた事実、語りすぎてしまうかもしれなかった事実はオウム真理教「科学技術省」トップという彼の立場を考えたときに、偽ドル、サリンだけにはとどまらず、さらに深い第三の秘密まで白日のもとにさらけ出す危険性を、じつははらんでいたのである。

 ここに取材班が入手した、膨大な機密書類の束がある。一枚一枚をめくっていくと、さまざまな図面、設計図、人員配置表、各種のメンテナンスのマニュアル、作業工程表などが混在しているのがわかる。

 表題の打たれていないものも多いが、いくつかの文書には次のような文字が見える。


「原子カプラント定検および増設・改良工事」
「原子カプラント主要工程表(社外秘)」
「五号機R/B地階サーベイ記録」
「原子炉PCV全体図」
「原子炉班体制業務分担表二号機」
「標準部品表示基準」

 実はこの書類は、現在稼働中の日本の原発についての、膨大な機密書類の束なのである。われわれが入手したのは、東京電カ福島第一原発、同第二原発と、中部電力浜岡原発(静岡県)、さらには、石川島播磨重工業原子力事業部などの研究施設のものだ。いずれも公開されているものではない。

 書類は、原子炉のボルトの位置、管の口径、内寸、メ一ターの位置、全体図におよぶ。民間の原発監視機関でもある原子力資料情報室(東京)の上澤千尋氏に、いくつかの資料を見てもらい、コメントを寄せてもらった。

「これはすごいですね。一般公開されているものでは、ここまで詳しく書かれているものはありません。しかし、これには部品の材料配分、どういうステンレスを使っているかが明記されています。私もはじめて見ました。

 また、ここに含まれている詳細な検査記録のようなものは、情報公開の対象にもなりません。


なぜなら、検査をして問題がなければ、問題がなかったという事実だけが重要であって、作業工程や数字を公開するのは意味がないという孝え方からです。もちろん、それは原発側、企業側の言い分なんですがね」

 一般の目にふれる原発関係の資料は、重要な部分はすべて真っ白なのだという。原子力資料情報室の所有する資料でも、枠取りだけが印刷されて、各原子力発電所の次のような文面の判が押されているものが多い。

『この資料はメーカーの未出版特許情報、ノウハウ等の機密情報を含んでおりますので、該当部分については非公開とさせて頂きます』と。

「要は、企業秘密なんですよ。寸法、計算プログラム、設計図面、材料の分量などは、すべて《白ヌキ》の対象になるんです」

 さらに目を通してもらう。

「これはBWR型。(東芝・日立・石川島播磨の三社産業グループのつくる沸騰水型原発)のものですね。作業過程のチェック・シートとか運転記録などは、運転技術レベルの低い国にとっては非常に参考になるでしょう。

 この資料を見ただけで、いつ、どこで、どの原発がどのような処理を施されたかがわかります。その上、配管とバルブの位置もわかります。どのバルブがどれだけ腐食していたのかが、記録に残っています」


 どうやら、かなりの機密資料であることだけは間違いがなさそうである。出所を明らかにしてしまえば、これらの機密書類は、オウム真理教の中から出てきたのである。

 オウム真理教「科学技術省」では、組織的に原発の機密資料を入手しようとしていた。九十年代のはじめ頃から、常時、各地の原発に下請け要員などの資格で作業員を潜入させていた。

 オウムの信者たちは、下請け作業員として各地の原発をまわり、あるいは研究員を教団に勧誘することを行っていた。

 そして、これらの原発、原子炉についての機密データの収集を命じたのは、他ならぬ「科学技術省」長官の立場にいる村井秀夫だった。


「カルマが落ちる」と言われ

 当時、その村井の指示のもとに、原発作業員として各地の原発に潜入していた元オウム信者の、次のような証言がある。

「ある時、村井さんとの雑談のなかで原発の話が出ました。私が原発で仕事をしたことがあると言うと、


『今度、行くときにはどんな資料でもいいから持ってこい。写真もとってこい。これはいいデータとして使える。持ってくれば、カルマが落ちるぞ。救済につながるから、頑張れ。行くときが決まったら直接、私に連絡しろ。具体的な原発の名前と仕事の内容も知りたい』

と言われました。原発は意外と管理が甘くて、資料などを外部に持ち出すことや出入りも簡単でした。

 私は結局、次に行く機会がなくて駄目でしたけど、村井さんはほかの信者にも『原発に働きに行く人間はいないか』と聞いたりしていました。原発で働くと給料がいいものですから、それだけ教団に多くのお布施もできるのです。

 私には原発のなにが役に立つのか、参考になるのか、まったくわかりませんでしたが、村井さんは 『オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる』と話していました。

 これは、別の信者の話ですが、ある信者が『科学技術省』のスタッフに原発から持ってきた数枚の資料を渡したときに『よくやったぞ。功績があれば、ステージもあがるぞ』と村井さんに言われたそうです。

 村井さんは亡くなる三〜四ヶ月前にも『原発にはもっと人を送ってもいいな』と言っていました」

 原発で働いていたもうひとりのオウム信者の証言は、さらに衝撃的である。


「オウムから原発に働きに行っていたのは、二百人はくだらないですね。きっかけは山口県の信者でUさんという人が、人材派遣業をやっており、その会社が原発からの仕事を受けていたからです。

 当時、信者の間では、お布施がたっぷりできる仕事がある、と噂になっていました。それが原発でした。

 近所の安いアパートとか下宿に泊まり込みで、仕事をします。一度行くと、三〜四ヶ月働きました。給料は月に四十万〜五十万円くらいになりましたね。Uさんは全国各地の原発に多くの人間を送り込んでいました。

 原発は、意外なことに管理がいい加減で、資料のコピーもとり放題でしたし、施設内の出入りも自由。原発の中心部のプールも、写真撮影できると思ったほどでした。

 また、その気になれば爆弾を仕掛けるくらいのことはいくらでもできました。金属探知機はあるにはあるのですが、プラスチック爆弾なら問題はないですし、そんなことをしなくても、金属探知機を通るときには、荷物は探知機の横からいくらでも手渡しできましたから。

 私はよく配管検査をやらされましたが、最初に赤い液体を塗ってから、次に白い液体を塗って配管の不備を調べます。ほんとうは資材とかが必要な部分もあるのでしょうが、まったく要求されたことはありません。


 もし、麻原がそのことを知り、目をつけていれば、大変なことになったのではないでしょうか」


 資料が北朝鮮に流れた可能性

 取材班は、この証言のなかにでてきたUという人材派遣会社および科学機器検査会社の社長であり、もとオウム信者とされている人物に何度か連絡をとろうとしたが、現在までのところ行方が不明である。

 しかし、ここに紹介した元オウム信考の証言と手もとの機密書類の束だけでも、オウム真理教が各地の原発の機密資料収集に手を染めていた事実は疑いえないだろう。

 九月末に茨城県東海村で起こった核燃料の臨界事故、その数日後にとなりの韓国・慶尚北道で起こった月城原子力発電所三号機の事故と同じような事件が、オウムの言う「ハルマゲドン」として実際に引き起こされたとしても不思議ではなかったことを、この事実は教えている。

 しかし、オウムはそのことを実行に移さなかった。このことはすべての資料と情報が村井「科学技術省」長官のもとに、留め置かれたことを示している。

 なぜか? 村井は、これらの資料を大量に収集し、どのように使おうとしていたのだろうか。


 ここで、思い出さねばならないのは、村井が早川紀代秀「建設省」長官とともに、たびたびロシアに出国していたという事実である。

 さらに早川はロシアを経由して、たびたび北朝鮮に渡り、その北朝鮮側の窓口が朝鮮労働党の「第二経済委員会」であったであろうことも指摘した。

 オウム真理教の総勢二百人にのぼる信者によって収集された日本の原発の機密資料が、じつは、この早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性が、ここに浮かび上がってきたのである。

 さらに、このルートを通じて流出した機密資料は、じつは原発の資料だけにとどまらず、さまざまなハイテク技術、最先端科学技術の膨大なデータであった可能性が、闇のなかから浮かび上がってきたのである。

 オウム真理教「科学技術省」長官・村井秀夫刺殺事件の背景には巨大な国際謀略が渦を巻いていた。

(文中敬称酪、以下次号)
■取材協力 今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)


週刊現代 平成十一年十一月六日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 最終回

「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 後編

サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 後編
村井秀夫は「北朝鮮の核」機密保持のために殺害された

村井秀夫の指示でオウム信者たちが原発に労働者として潜り込み、内部資料を持ち出していたことは、先週号で報じた。では村井はなぜ、原発資料を集めていたのか。それは彼が、北朝鮮が密かに進めていた「核開発」と接点をもっていたからなのだ。そして村井が口封じされた原因も、まさにそこにあった!



 物理学の専門家だった村井

 材井秀夫は《知りすぎた男》だった。

 オウム真理教をめぐる一連の事件のなかでも、もっとも深い謎に包まれている「科学技術省長官」刺殺事件──複雑に絡み合った謎の周辺をほぐしていくと、これまでマスコミで報道されてきたオウム真理教の顔だけではなく、もうひとつ別の顔をもった教団の姿が、浮かび上がってくる。

 教団武装化を唱えはじめたオウム真理教の突然の転換の背後には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の影が濃厚に見え隠れしはじめる。

 さらに、偽ドル、サリン事件の謎と毒ガスの入手ルート、北朝鮮工作組織の介在、流出した原発の極秘データとその行方という、新たな疑惑が露出してきた。

 そして、それら教団内部の最高機密に属していたであろう事がらを、彼=村井秀夫はことごとく知り得る立場にあったのである。

 その村井が不用意に口を開きかけたとき、陰の工作者たちは戦慄した。村井の発言がもたらす波及力は、教団という組織内部にとどまるものではなかったからである。


 しかし、たぶん村井秀夫がそのことを完全に自覚していたとは言いがたい。村井は自分が知っている事実が白日のもとに曝されたとき、国内外にどのような波及カ、破壊力をおよぼすかについて、無自覚であっただろう。

 村井秀夫刺殺事件は、オウム真理教および村井個人の思惑などを越えたところで、大きな闇の世界の力学によって引き起こされた事件であったように思える。この事件の背後には、国際的な陰謀と謀略、政治が渦を巻いて存在していた。

 村井は、各地の原子カ発電所にオウム信者を送り込むにあたって「今度、行くときにはどんな資料でもいいから持ってこい、これはいいデータとして使える」と、語っていた。

 また、どこが参考になるのかわからない、と言う信者に対して「オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる」と語っていたという元信者の証言もある。

 ここで村井の経歴と専門分野、プロフィールを、少しだけ辿っておく必要がありそうである。

 村井は一九五八年十二月、京都市で生まれた。一九七七年四月、大阪の府立高校を経て大阪大学理学部物理学科に入学、大学卒業とともに大学院修士課程に進み、宇宙物理学を専攻。このときの研究テーマは、惑星から出るX線の研究だった。


 修士課程を修了後、一九八三年四月、神戸製鋼に就職。機械研究所の研究員として、航空機関係の研究に従事。熱心な学究肌の研究者だった。

 その村井にわずかな変化の兆しがあらわれるのは、一九八五年頃、彼は次第にヨガに夢中になるようになり、神秘主義にあこがれるようになる。この年、職場の同僚だった女性とネパールにおもむき結婚式を挙げる。

 オウム真理教との出会いはそれからほぼ二年後、彼がたまたま麻原彰晃の著作を読んだことからはじまる。村井は麻原の著書に非常な感銘を受け、研究所を退職し、妻とともに出家を決意。

 その後の村井は一九九五年四月二十三日、東京・南青山のオウム真理教総本部前で、徐裕行によって刺殺される運命の日まで、オウム真理教という教団と運命をともに、一気に短い人生を駆け下りていった。

 この経歴からわかるように、村井は物理学徒として、きわめて専門的な知識を身につけ、実際に民間企業での研究の最先端の場に身を置いていた人間であったのである。「オレは専門だから・・・・・・」という村井の発言には、誇張も衒いもなかった。



 究極の教団武装化は「核」開発

 先週号で指摘したような、国内各地の原発の機密データも、村井の目には研究所で日常的に目にしていた多数の書類と同じものに見えていただろう。彼は、そこに現在稼働中の原発の状態、点検工程、不備などを手に取るように見ていたはずである。

 村井についての印象的な写真が残されている。教祖・麻原の横にいる村井が、麻原と一緒にいることで喜びを隠し切れないという表情を浮かべ、天真爛漫な笑顔で写っている写真である。

 その村井が、信者たちに原発の機密データの持ち出しを指示し「持ってくればカルマが落ちる」と言っていたことは、村井自身もまた、そのことを信じていただろうことを、容易に窺わせる。

 一方では自分自身も宗教的な存在として「ハルマゲドン」におののき、一方では冷静な科学者の目で、村井は手元に集められてくるデータの集積を見続けていたに違いない。

 彼に、そのことに対する罪の意識は、たぶん、なかった。だから、彼=村井にとって、それらの資料が国外に流出することについても、危険の感覚は存在していなかったに違いない。村井の人生を私なりに辿る作業をしてみて、なぜかそんなふうに思えてくるのである。


 村井がオウム真理教の活動のなかで、これら原発の機密資料を収集するだけではなく、さらにそれを越える途方もないことを考えていたらしいことを、私はいま、リアルに感じ取っている。

 村井は、オウム真理該「科学技術省長官」として、サリンをはじめとする毒ガスの生産研究、生物化学兵器の研究とほぼ同時に、教団自らが独自に「核」開発に手をそめることを、真剣に考えていた痕跡があるのである。

 村井が核開発のことを、たびたび周辺の信者たちに語っていた、という証言がいくつかある。周辺の信者たちにとって「核」開発の話は、原発の機密データと同じく、ある種のブラックホールであり、理解不可能なただの話にすぎなかったかもしれない。

 しかし、村井秀夫についてのみ考えてみれば、あながちそれが単なる空想、夢想にすぎなかったとは思えないのである。

 オウム真理教のもつ豊富な資金と北朝鮮コネクション、そしてそれらを背景にして教団武装化を至上命令として考えたときに、村井「科学技術省長官」の脳裏をよぎったものは、究極の教団武装化としての「核」開発であった。



 一致したオウムと北の利益

 オウム真理教「科学技術省」が究極の獲得目標として「核」武装を射程に入れていたのだとすれば、ここに不気味な国際政治の裏面が浮かび上がってくる。その構図は次のようなものである。

 一九八二年五月六日、金正日による「よど号」のハイジャッカーに宛てた「親筆指令」から始まった日本国内の破壊・攪乱工作指令は「よど号」グループのいくつかの試みを経ながらも成功することはなかった。

 この工作をいかに実現するかで「よど号」グループは組織内部に路線対立を生じ、メンバーのひとり岡本武の粛清問題にまで発展していく。

 彼らは日本国内に潜入し、さらにヨーロッパ各地で人員獲得のために「拉致」事件を引き起こす。しかし、八十年代の末にいたって逮捕者が相次ぐなか、この企ては挫折する。

 そこに代わって登場してきたのがオウム真理教だった。オウム真理教は、それまでの「オウム神仙の会」のころのヨガ道場的な存在から、一挙に教団武装化を唱えはじめ、世界各地で宗教を隠れみのにした活動を開始する。


 この段階で、相当大量の資金導入が外部から行われたことは、元幹部の証言にも詳しい。そして、どうやらこのときの導入資金の大半が、いわゆる偽ドルだったらしいことも指摘した。

 ちょうど、この時期は、北朝鮮による偽ドル疑惑がさかんに取り沙汰されはじめた時期の直前にあたっている。

 当時、教団が北朝鮮の工作組織とヨーロッパを中心とする各地で接触を図っていたらしい痕跡がいくつか残されている。教団はこれらをきっかけとして徐々に、北朝鮮との関係を深めていった。

 村井秀夫「科学技術省長官」と、同じ教団幹部、早川紀代秀「建設省長官」がともに頻繁にロシアに渡航し、さらにウクライナにも入国していたことがわかっている。さらにウクライナの首都キエフやハリコフから、ハバロフスク経由で北朝鮮に入国していた痕跡が多数残されている。

 この段階で、オウム真理教の北朝鮮コネクションは、ふたつの軸を中心に動いていた。ひとつは、かねてからの宿題である日本国内の攪乱工作。もうひとつは、北朝鮮側が必要としていた日本のハイテク技術、ソフト、製品の需要である。同時にロシア、ウクライナ・ルートによるプルトニウム輸入などの「核」開発関連である。


 ところが、ここに北朝鮮とオウム真理教を結ぶ第三の軸が、先のふたつの軸を発展させた形で浮上してきた。オウム真理教自身の武装化としての「核」開発が、村井秀夫「科学技術省長官」の教団武装化構想のなかで、課題にのぼりはじめたことである。

 偶然というか、奇妙なことに両者の利益がこのとき一致した。オウム真理教の「核」武装化は、北朝鮮が狙う日本撹乱・破壊工作の上では、原発のデータ流出とともにきわめて重要な位置を占める。

 さらにオウム真理教側にとって、北朝鮮という新興の「核」開発をめざす国家の存在は、有形無形の大きな意味を持っていた。

 オウム真理教側は、この構想にもとづいて北朝鮮に食い込もうとし、北朝鮮側は、オウム真理教を可能な限り利用しようとした。これが、一九九〇年代中頃、地下鉄「サリン」事件が引き起こされる直前までの構図である。


「よど号」犯の妻に接近した狙い

 しかし、実際にはどうであったのだろうか。これらのお互いの思惑と構想は、どこまで有効に結びついたのだろうか。


 結果は、どうやらその大半が実現されることなく終わったとしな言いようがないのである。いくつかの傍証がある。

 日本本の「核」技術開発の中心のひとつである、筑波研究学園都市、ここの関連研究施設に、オウム真理教の幹部たちが幾度か接触を試みたことがあった。しかし、この試みはどうやらあまりうまい結果を生んでいない。

 さらにちょうどこの時期、ピョンヤンにいた「よど号」グループのリーダー・田宮高麿は、日本から合法的に多くの人材を北朝鮮に招請する計画を立てていた。

 それは民族派の人間であったり貿易関係者であったりしたが、その中に科学技術関係者も含まれていたのである。

 このことは、オウム「科学技術省」の村井秀夫が意図し構想していたであろうようには、北朝鮮側の核開発関連技術導入の「筋」が、まだ確定したものではなかったことを示している。

 これと関運して、一九九一年十月二十日、東京・練馬区の練馬文化センターで開かれたオウム真理教主催の「真の自由と平等を求める市民の集い」という集会に「よど号」グループの「妻」のひとり、八尾恵がパネリストとして出席したことで、オウムと北朝鮮の関係が「赤旗」紙上や週刊誌などで取り上げられたことがあった。


 この集会については、オウム側から青山吉伸弁護士、鹿島とも子などが出席し、人権派として千代丸健二、救援連絡センターの事務局長・山中幸男などが参加した。

 八尾恵はこの当時、報道被害などを訴えてマスコミ訴訟をつづけており、救援連絡センターの事務局員として働いていたことから、この集会に参加している。

 この集会に「よど号」の「妻」のひとりが参加していたということをもって「赤旗」は疑惑に満ちた記事を書いたが、実際にはなんの根拠もないうがった記事だった。

 しかし、問題は彼女がこの集会に参加したことにあったのではなく、じつはこれ以前から八尾の裁判支援にも、オウム側から青山弁護士を含む複数のアプローチが行われていたことである。

 当初はオウム側が、一種の「広告塔」として八尾を利用しようとしているのではないか、とも考えられたが、グループのリーダー田宮は、私が訪朝したおりに直接、その理由を尋ねたとき、じつに明快な答え方をした。

「オウムは八尾さんを介してわれわれとコンタクトを取ろうとしているのではないか」と。さらに「オウムはわれわれを通して共和国とコンタクトを取りたがっているのではないか」と。


 これらのことを考えあわせると、オウム真理教にとってもこの時期にはまだ、明確に北朝鮮側の窓口が一定していなかった、ということがわかってくる。

 そして、オウム真理教と北朝鮮側の窓口がまだ不安定であったが故に、オウムの「核」による究極の教団武装化計画は実現するにはいたらなかった。

 幸運なことに、オウム真理教が自作自演しようとした「ハルマゲドン」計画は、回避されたのである。


 核査察問題で野望は挫折した

 ではなぜ、北朝鮮の「核」開発にとって、ロシアではなく日本の一宗教団体がそこに食い込む余地があったのだろうか。この答えは簡単である。

 北朝鮮は自国の「核」開発のために、ロシアから多数の学者、研究者をピョンヤンに招請していた。その担当部署が朝鮮労働党第二経済委員会であったことも、今では周知の事実となっている。

 しかし、北朝鮮の工業技術、ハイテク技術の技術体系には、明らかにもうひとつの「筋」が存在していた。それが、日本の工業技術でありハイテク技術であったのである。


 朝鮮総連をはじめ、その傘下の在日朝鮮人科学技術協会(科協)などの団体が、これまでに極めて大量の技術、研究成果、および資材を日本から「祖国」北朝鮮に輸出していることは紛れもない事実であり、これが合法的・非合法的な領域を問わずに、これまでつみ重ねられてきたことは多くの指摘がある。

 いわば北朝鮮には、ロシア型の技術体系と日本型の技術体系が混在していると言ってよい。その上、現在のハイテク技術の分野では、圧倒的に日本型の方が部品等の製品事情を含めて優位にたっている。

 北朝鮮のミサイルや潜水艇の部品に、多くの日本製品が使われていることがマスコミで問題視されることの理由もそこにある。

 この日本型の技術体系下で行なわれる研究や開発にとっては、小さな部品やIC機器のひとつにいたるまで日本製品の方が便利であることは言うまでもないだろう。

 そこに、日本からの研究とデータが北朝鮮に求められる意昧が存在している。北朝鮮側がオウム真理教を利用して、日本の原発の資料をはじめとする研究レポートを入手しようとした理由の大半も、そこにこそあった。

 また、オウム真理教側にとっては、国内では所有不可能な研究施設や研究体制が、北朝鮮側から提供されれば、それに越したことはなかったのである。しかし、このオウム真理教「科学技術省」の構想は挫折した。


 一九九三年三月、北朝鮮のNPT(核不拡散条約)脱退宣言から、核査察の受け入れと拒否をめぐる一九九四年六月のIAEA(国際原子カ機関)脱退という、一連の北朝鮮核開発疑惑をめぐる国際政治の荒波のなかで、この構想は着手されなかった。

 むしろ、あの朝鮮有事に向けた一触即発の状況のなかで、このオウム真理教の構想に、北朝鮮がどんな些細な部分においても関与していることは、どうしても闇に葬らねばならない「事実」だったのである。

 村井秀夫「科学技術省長官」刺殺事件の背後には、そうした国際政治の闇の部分が、ブラックホールのようにうず巻いていた。

 オウム真理教が引き起こした一連の事件への北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた。

 サリン事件をはじめとした多くのオウム真理教によるテロ事件、これらの事件の犠牲者の数は多い。さらに親兄弟を失った家族の悲しみもいまだにいやされることがない。

 一連のオウム真理教の事件の背景になにがあったのか、その真相を明らかにすることが、犠牲となった人々への何よりの鎮魂、手向けであるのではないだろうか。日本政府は、これらの事件の真相と背景について、そろそろ明らかにするべき時期が来ていると思うのだが。


 最後に一言。この連載は今回でひとまず終わらせて頂くことにしたい。短期の集中連載という形で始まったこの記事も今回で十一回目を数えた。

 鈴木哲編集長の「ライブでやれ!」との一言で始めさせていただいた記事だったが、いくつかは新しい事実、真相を提示することができただろうと考えている。

 あらためて取材の態勢をとりなおした上で、再開できる日を待ちたい。このテーマはオウム真理教と北朝鮮という国家が存在するかぎり、私にとってのネバー・エンディング・ストーリーである。

(文中敬称略)
■取材協力 今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)


る還へ9#典教の悪