らもんの一生 平成六年 |
平成六年三月十日 山岸涼子 自選作品集 天人唐草 解説 |
山岸涼子さんが、かの白き指先でひらひらと編まれた自選作品集である。
マフラーを編むのかセーターを編むのかを決めずに編み始めてしまう人はいない。まず編む意志がくっきりとあってものが形を成す。ではこの本はどういう意志の元に編まれたのだろうか。
この本をひとつの言葉でくくるのはそう簡単ではない。恐怖もの、恋愛ものといった既成のジャンル分けの用語はこの一冊に対しては意味をなさない。もし大変にがさつで勇ましい人がいたら、「心理ミステリー」なんていう名をこの本につけて澄ましていられるかもしれない。それでは本が気の毒だ。
この本のテーマは「迷い子」である。デパートで迷っているわけではない。生きるというその路上において、たった一人でぽつんと立ちつくしている子どもたちがここには描かれている。
「天人唐草」の主人公響子も迷い子の一人だ。この子は生きるのがヘタだ、と自信喪失を重ねながら育っていく。しかし実はそれは彼女の錯覚に過ぎないのだ。響子の父親は父権制社会の亡霊を背負って立ったような男で、戦前のモラルや価値観が紋付ハカマを着た、といった存在だ。そんな古風な父親に、響子は何とかほめられ、可愛がってもらおうとする。そのことごとくが裏目に出る。
「ハーピー」。これはとてもよくできた、それこそ「心理ミステリー」だ。あれこれ野暮を言うのはやめよう。ただ、この作品の主人公が少しずつ内側から壊れていく、その背景にあるのは受験システム=世界からこぼれてしまうのではないかという不安だ。彼もまた迷い子なのである。
「狐女」の主人公理は九歳。早熟で悪魔のような奸智を秘めた子どもだ。しかし、その外殻は理の「武装」の結果に過ぎない。その外殻をくるりとむけば、裸の、柔らかい九歳の子どもの姿があるはずだ。母親を知らず、三界に家なき身となった彼には武装する必然があったのだ。
父親の血のつてをたずねてこの子は地方の素封家の家に転がり込む。土蔵、稲荷、冷たい廊下、冷たい大人たち。煤けた借景の中で、彼の「母親探し」が始まる。彼もまた迷い子なのだ。きりっとして泣きわめかないから誰も気づいてくれないだけだ。泣く前にこの子は、悪意と知恵とを武器に世界と対決しようとする。そして、ついに彼は母親を探し当てる。そして・・・・・・。
「籠の中の鳥」。ここにも迷い子がいる。彼の名は融だ。彼は「鳥人一族」の末商だ。盲目の祖母とたった二人、人里離れた山家に暮らしている。両親の顔を見たことはない。お祖母ちゃんは「飛べる」が融は「飛ぶ」ことができない。鳥人一族は飛ぶ能力なくしては生きてはいけないのに、である。そして頼みの綱のお祖母ちゃんもある日亡くなってしまう。融は飛ぶ能力もなく生きる術も知らず、無能な「子ども」のまま、裸の世界へぽんと放り込まれてしまうのだ。悪夢のような一瞬だ。凍りついた時間はやがて溶け始め、ゆっくりと流れ出す。しかし、時が流れるのは、この悪夢を反復し、展開させていくためでしかない。融はこの流れに添って、あいかわらず無力な子どものまま呆然として歩んでいかねばならない。
(ただこの作品は本編中唯一のハッピーエンドになっている。)
「夏の寓話」。ここまで読み解いていけば、もう何も言うことはないだろう。ここに登場する小さな少女は、「世界」そのものをすでにあらかじめ失ってしまっているのだ。まさに正真正銘、「迷っている」人である。
つまりこの一冊は五人の迷い子たちの、痛々しい道行きをそれぞれに描いた作品集だと言える。途方に暮れた子どもたち、泣く術さえも知らない幼子たちの迷宮巡りの物語である。山岸涼子さんはこの子たちに何かの救いを与えるわけではない。
SE(風呂場の水滴などの音)
子・九七、九八、九九、ひゃ〜く! やった。百数えたからお風呂出るよ、母さん。
母・だめでしょ。もっともっとあったまらなくっちゃ。
子・え、もっと?
母・そう。一万数えるまで出ちゃだめよ。
子・げ。
子・九九九七、九九九八、九九九九、いちまんっ。やった。一万数えたよ。
母・よおく我慢できたね。
♪ちゃんちゃん♪
冗談はさておいて、だ。 フィクションが現実を見貫く「まなざし」に他ならない、ということを拒否なさるフィクション嫌いのあなたに。では現実なるものを開陳しよう。僕はこの五日ほど、新聞を眺めて迷い子探しをした。たったの五日ほどのことである。
一月十八日付朝日新聞朝刊。
福岡市近郊の十四歳の男の子が自宅マンションの八階から飛び降り自殺をした。即死だった。
一月十九日付、同夕刊。
フロリダ州ウェストパームビーチ。十三歳の女の子がタクシー運転手を射殺した。殺した理由は、運賃を払いたくなかった″からである。タクシー代は六ドルだった。
一月二十一日、同夕刊。
米児童擁護基金の発表。一九七九年から九一年までに五万人の子どもが銃によって死亡した。内訳は、殺人事件 二万四五五二人。自殺 一万六六一四人。暴発などの事故 七二五七人。etc。
ほら、迷い子の列だ。
みんなこの世界を前にして途方に暮れている。誰にどう話せばよいのか、彼等はその文法を知らない。唯一よく理解でき、信ずるに足るものが「自殺マニュアル」だったり、ピストルだったりする。これを現代に特有の「社会問題」だと取れる人は幸せな人だ。そうではない。これは古代から連綿と続いてきた、生の根源の問題なのだ。
(作家)
永遠も半ばを過ぎて 〜 あるいは中島らもについて |