ジェームズ・バクー


消えた百万人

ドイツ人捕虜収容所 死のキャンプへの道

平成七年三月二十二日 光人社
ISBN4-7698-0665-5 C0098 税込千八百円

 "Other Losses"―「その他の減員」として片付けられ、今日に至るまで隠蔽され続ける第二次世界大戦末期の、最大のナゾを克明に白日下に晒し、その惨劇と責任の所在を解明して、最後の審判を世に問う、衝撃の一冊。


 序 文

ドクター・アーネスト・F・フィッシャー
アメリカ合衆国陸軍(退役)大佐
一九八八年 バージニア州 アーリントンにて

 一九四五年末、西ヨーロッパ戦線は投降した何百万のドイツ兵で溢れ、東部戦線ではソ連軍との最後の戦いがつづいていた。
 西部の大量投降と東部の必死の抵抗は、ドイツ軍最高司令官デーニッツの戦略だった。デーニッツは、一兵でも多くを人道的な取り扱いが期待できる、アイゼンハワー麾下の連合国軍に投降させようとしていた。だが、その試みは絶望的な結果に終わった。五〇〇万人をこえる捕虜は野ざらしで、立錐の余地もない鉄条網囲いに入れられ、最小限の食糧や衛生施設にも事欠いた。
 一九四五年四月以降、仏軍の手にあったものも含めて、約一〇〇万人の捕虜が次々に命を落とした。このような惨事が米軍のもとで起こったのは、南北戦争時のアンダーソンビル監獄以来のことだった。そして、ヨーロッパでのこの惨劇は、四〇年もの間、連合国公文書館の書籍の山に隠されていた。
 一九八六年、この惨劇の最初の手がかりがジェームズ・バクーによって発見された。ナチの手から一六〇〇人もの難民を救ったフランス・レジスタンスの英雄ラウル・ラポルテリーの著書を調べたバクーは、ラポルテリーが救ったハンス・ゲーツという元ドイツ兵を捜し当てた。一九四六年、ラポルテリーはゲーツをフランス軍収容所から貰い受けて、彼が経営するチェーン店の仕事につかせた。「ラポルテリーが私の命を救った」とゲーツは語った。


ゲーツのいた収容所は、飢えと病気で、一ヶ月に、捕虜の二五パーセントが死ぬという悲惨な状態にあった。
 パリのヴァンセンヌの公文書館にあった赤十字国際委員会のレポートから、その収容所が、最悪の状態にあったものの一つだということがわかった。バクーはやがて、米軍収容所での大量死についても、動かし難い証拠を掴んだ。米軍の報告書にある『その他の減員─Other Losses』という婉曲な言い回しの項目がそれであった。この項目の意味は間もなく、当時、連合国軍最高司令部の要職にあったフィリップ・S・ローベンによって説明された。
 一九八七年春、バクーと私はワシントンで落ち合った。それから何ヶ月もの間、われわれはヴァージニア州、レキシントンのジョージ・C・マーシャル財団公文書館で、証拠の数々を照合した。ドイツ再生の道を閉ざすべく、一切の工業力をドイツから取り去る方針が、一九四四年に、米英両政府の最高レベルで検討されていたこともわかった。
 ドイツに対するアイゼンハワーの憎悪は、軍隊という服従の機構を通して、《死のキャンプ》の惨劇をもたらした。そして、この出来事の耐え難い側面は、何人かの高級将校たちの《当たらず触らず》の態度である。
 戦闘終結後に、かくも多数の非武装、無抵抗のドイツ人を死に追いやった行為は、アメリカ国民の大多数の意志とはかけ離れたものだった。収容所での死亡者数が、一九四一年から四五年四月にかけての戦死者の数を上回ったという事実は、惨劇のマグニチュードを物語る。本書は、この惨劇の実態を明らかにしていくだろう。


 はじめに

 調査を始めてから長い間、私と助手(匿名希望)は、数々の発見に、半信半疑の日々を過ごした。フランスのある公会堂の屋根裏部屋では、死亡捕虜のリストがはいっているはずの、埃をかぶった古い書類箱を棚からおろしつづけた。だが、リストはなかった。それでも、戦後の人手不足による手違いだろうと考えた。そして、フランス人牧師──彼がいた収容所で埋葬した捕虜の数について二度も食い違う発言をした──の落ち着かない表情も、罪の意識からではなくて、われわれが提起した問題の悲惨さに衝撃を受けたからだと善意に解釈した。
『食糧を届けるのに必要なガソリンの配給を軍が拒否した』という、一九四五年の赤十字国際委員会の苦情は重要だと思ったが、苦情書上の『済み』という手書きを見て、処置がとられたものと考えた。ところが、『約束にもかかわらず、ガソリンが入手できない』という後日の手紙を発見して、そうではないことがわかった。前記の牧師と同じ収容所にいた警備員は、牧師が認めた死亡者数よりはるかに多くの捕虜が死んだはずだと語った。さらに多くの証拠が現れた。そして、それらの証拠が物語る戦慄すべき出来事と、われわれが教えられた美しい神話の、いずれを取るべきかという、苦しい選択を迫られることになった。
 仏軍収容所の第一段階調査が終わるころには、米軍収容所での同様の出来事についても、いくつかの小さな証拠が浮かんだ。そこで、われわれは、調査の場をワシントンに移した。自己の残虐行為の証拠を米陸軍が保存しているとは思えなかったが・・・・・・。


 ペンシルヴァニア通りの合衆国国立公文書館で、『戦時捕虜ならびに武装解除された敵国軍隊に関する週報』という表題の書類綴りを発見した。週報には、フランスの記録にもある『その他の減員─Other Losses』という項目があった。
 この項目が死亡数を意味することは明らかだった。だが、それは、われわれの解釈であって、死亡者数と書いてあるわけではない。真相をだれに求めるべきか?
 私はフィリップ・S・ローベン大佐の門を叩いた。ローベンは、ヨーロッパ派遣連合国軍最高司令部の秘密文書配布先リストに載っていた人物で、当時、最高司令部ドイツ問題担当部長として、捕虜の移送、本国送還の任にも当たった人である。
 かれの家のリビング・ルームで、私は冷静を装いながら、蒐集した資料のコピーを拡げた。かれの第一声が、われわれの一年余りの努力を無にするか、あるいは、歴史的に重要な一歩とするかの別れ目だった。ローベン大佐と私は順を追って『その他の減員』の項目に辿り着いた。
「この数字は死亡者と逃亡者を意味する」と彼は言った。
「逃亡者の数はどのくらいか?」との私の問いに対して、彼は、
「きわめてわずかだった」と答えた。
 逃亡者数は一パーセントのさらに十分の一以下だったことが後日わかった。
 広範な隠蔽工作と、最初から偽造されていた書類もあって、把握がむずかしかった死亡者は今後とも議論を呼ぶだろう。多くのデータが一九五九年代に破棄され、偽りが真相を何層にも覆っていた。


 戦争終結直前の一九四五年四月以降、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓がもとで、膨大な数のあらゆる年齢層の男たちに加えて、女子供までが、ドイツとフランスの収容所で死んだ。その数は、確実に八〇万を超えたし、九〇万以上であったこともほぼ確実であり、百万を超えた可能性すら十分にある。捕虜の生命を維持する手段を持ちながら、あえて座視した軍によって、この惨事は引き起こされた。救恤団体の救援の手は米軍によって阻まれた。真相は隠され、赤十字や、ル・モンド、ル・フィガロ紙には虚偽の情報が与えられた。そして、記録の破棄や改竄が行われ、あるものは秘密のファイルに入れられた。このようなことは今日にいたるまでつづいている。
 同じ最高司令部のもとで、フランスや米国と共に戦った英軍とカナダ軍も、何百万という捕虜を収容した。われわれは、彼らの収容所についても調べた。捕虜が辿った運命はさだかではなかったが、残虐行為の跡は発見できなかった。軍、赤十字国際委員会、それに当時の捕虜から集めた証拠は、不十分とはいえ、一九四五年に米軍から引き継いだ約四〇万を除いて、ほとんどの捕虜が、最後まで、良好な健康状態だったことを示していた。四〇万のうちの多くは、引き継いだ時点ですでに危険な状態にあった。
一九八八年、ドイツ捕虜に関する重要文献とされるフィルモー論文の閲覧を、カナダ陸軍が英国政府に要求した。英国政府は《目下使用中》との理由でこれを拒否した。英軍、カナダ軍の手にあったドイツ捕虜の取り扱いに関する記録は、ロンドン、オタワどちらの公文書館にも保管されていない。ナチ強制収容所の資料を求める二人の作家が、最近、赤十字国際委員会の記録所に立ち入りを許可されたが、ドイツ捕虜に関する文献を求める筆者の立ち入りは許されなかった。


そして、カナダ陸軍およびカナダ赤十字を通じての請求にもかかわらず、本件に関する文書の閲覧は繰り返し拒否された。
 英国もカナダも、米軍収容所の様子を知っていたし、英国は、少なくとも、収容所の一つで行われた残虐行為を知っていた。カナダ政府だけが抗議したが、一度だけで終わった。
 人間の価値、報道の自由の尊さ、立法府の重要さに思いをいたしのが本書を綴る動機の一つである。
 四人の方々に心からの感謝を捧げたい。フィリップ・S・ローベン大佐の良心と、その勇気ある援助なしには、真実の扉を開くことができなかった。アーネスト・F・フィッシャー大佐は、寄せられた序文をはるかにしのぐ援助の手を差し伸べられた。第一〇一空挺部隊の中尉から大佐に昇進したフィッシャー氏は権威ある戦史家であり、『カシノからアルプスへ』は、同氏が合衆国陸軍戦史センターの先任戦史担当官時代の著作である。フィッシャー氏は、私が必要とした知識を縦横に駆使して、温かく私を導いてくれた。夫人エルザと彼は、合衆国国立公文書館の文献の調査に多くの時間を割いた。『ヨーロッパ戦線軍医部記録』という、欠くことのできない記録を発見したのも彼であった。ワシントン、スートランド、メリーランド、レキシントン、ヴァージニアで、同記録や他の重要な文献を彼とともに調べた。勇気ある、賢明で温厚なフィッシャー氏は、合衆国の誇りであり、私にとっても、緻密な学究の徒として、また、誠実さ溢れる友人として、尊敬おくあたわざる人である。
 私の思うままに仕事をさせてくれた妻のエリザベスは、常に私を支えてくれた。報われる日がくることと信じる。


 多くの方が、いくつもの誤りを拙著に発見されるに違いない。すべて私の責めに帰するものである。批判を歓迎し、また諸氏のさらなる調査を歓迎したい。その試みが、長年にわたり、偽りのベールに隠されてきた真実を明らかにしてくれるであろうから・・・・・・。

  ジェームズ・バクー
  一九八九年、トロントにて


読者が語る「第二次世界大戦」 悪の教典へ還る