あさはかな評論

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僕の間違った歴史
結局予言は・・・
僕の病気
臨界点

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僕の間違った歴史

 日本はなんだかんだで戦争はもう半世紀近く経験していない。そのせいか日本の歴史そのものに対しての理解力が無くなってきている。大体日本史はどれくらい昔から学べばいいんだろう?、僕が思うに、古くても弥生位からでいいんじゃないのかな?
 さすがに、明石石器時代の話まで遡って、「日本史」というのも…、そこまでいったら考古学だよ(笑)。後、現代はここ最近までやる必要があるんじゃないかな?日本史の教科書って、まともに終了したことがない。それは、内容の膨大さもあるし、教師の思想とかもでているのかもしれない。しかし、第二次大戦まで行くか?行かないよねぇ。大体行っても大正くらいまでで、僕が高校の時には、一年通してやって、室町しか行かなかった。幕府成立前に終了(笑)ま、それはウチの高校の日本史教育が異常なまでに濃い密度を誇っているせいで、担当教諭も「幕府いけるかなぁ」なんていう位。
 でも、そんな教育下においても、第二次大戦は歴史の面でも重要なイベントであって、先生が少しは話したものだったけど、最近知らない奴も多いらしい、アホだ、まさにアホ。戦争に関しては、理解しておくべきだろう。
 なんで日本に在日米軍基地があるのか?、なんでアジア地域は日本に非難の目を向けるのか?とか、細かい事を言い出せばきりがないけど、現在言い争ってる思想主張は二の次にしてでも、学ぶ必要性があると思う。別に愛国心をあおるわけでもないし(あおりたくもない)、ただ知っておく必要があると思うのだけど。(続く)

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結局予言は・・・

 結局ノストラダムスで何らかの現象というものは全く起きなかった。まぁ、こじつけようと思えば、トルコで起きた地震とかを結びつけることもできるだろうが、何も起きなかった。起きるわけがなかった。
 ただ、それにしてもこれだけのイベントがありながらTVって意外に冷静だよな、特番なかったもんなぁ、折角やると思っていたのに(笑)しかし、面白いのは、この予言に関しての解釈の様々さだ、本人らは至って真剣だろうが、読んでる身としては大笑いで仕方がなかった。本人の著作の発行日と、予言の章組の数字が同じだから俺は正しいとか訳の分からない自己顕示を示している本もあったり、もう何がなんだかわからないMMRといい勝負だ(って、やっていることは同じか)ここで、ノストラダムスというカリスマを失った人たちは、次の予言書に手を出すのは目に見えている、予言書はまだまだ沢山ある。それは、エドガー・ケーシーでもいいだろうし、マヤ、ファティマ、ヨハネの福音書(別名:黙示録)死海写本からとってもいいかもしれない。要はこういった予言書は末法思想観というのは、ジェットコースターや、お化け屋敷と同じ効果を持っていると言える。平和な国に置いて恐怖を買うわけだ。特に予言書の様な類は、いつ起こるか分からないため緊張を持続させやすい。一種の通過儀礼と考えてもいいかもしれない。日本に置いての通過儀礼がノストラダムス、ひゃー、一億総オタク化ですな(笑)


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僕の病気

 年に1、2回出る病気がある、それは「デジタル恐怖症」今その状態にある。とにかくデジタルなものがイヤなのだ。特にPC。こうやって文面を書いている時点で既に矛盾を抱えてしまっているわけだが、僕のいう恐怖はお化けが怖いに似ている。つまり目視できないデータが怖いのだ。全て数値化されその数字の大きさでしかファイルの大きさを感じることしかできない。確かに他にも起動時の遅さから「このファイルは重い」と感じることは可能だが、物理的な重さを感じることはできない。そうなってくると、よくもまぁ、こんな得体の知れない機械を発明したものだとも思う。仮にも今コンピュータ業界に身を置いている者としては、もの凄くばかげた意見かもしれないが、とにかく今はデジタルが怖い、アナログなものに傾倒してしまう。いや、デジタルでもいいのだ。手元に自分の作成したデータがフロッピーなりMOなりデータそのものは見えないが少しでも手に取れる状態にあるのは、非常に落ち着くし、それに愛着も湧いてくる。しかしそういった事無しに単にデータとしてのやりとりのみに従事する場合は、こういった恐怖に陥るのだ、こういう時は絵を描いたり、ノートの切れ端にでも詩や小説で使うであろうフレーズでも順番など無視して書きつづるとまた、安心するのだ。PCに向かっていると自分もその作られているデータの一部なんじゃないかななどとサイバーパンクな思想にもたまにかられるが、他の人たちはどうなんだろう?
 これに類似した問題で、僕はたまに花に蜜を吸いに来ている蜂にかなり近い位置で見ることがある。こっちが何もしなければ蜂なんかは何もしない。蜜を吸い生きているというリアル感はTV等で見るネイチャー番組や教育番組なんかじゃ得られない感動だ。それにたまに泣いてしまったりする。そうしないと自分が”生きている”という実感が得られない位感覚的に麻痺し始めているのかもしれない。
 何か自分に分が悪いと思ったときコレは自分じゃないなんて思うこともある。これはとある番組によれば、これが重度に進行すると、解離性同一性障害(多重人格)を引き起こすというホー、そうなのか、なるべく気を付けよう。
 と、僕自身自分が何者かも分からずに、何らかの病を抱えている。それは皆が皆同じ様なものだと思う。それじゃなければ、人間面白くない。要は自分がそれを認識しているしていないかの差なのかもしれない。

 そんな僕は今デジタル恐怖症だ。


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臨界点

 茨城県の東海村で、放射能が漏れ被爆者を出してしまった。事故そのものは、人為的事故で当日10キロ圏内が封鎖、立入禁止となりかつてのロシアで起きた「チェルノブイリ原発事故」を彷彿とさせるものだった。
 現状その地域の安全宣言がなされ、特産物に関しても特に問題は無いという報道がされているが、実際問題ここ暫くは、茨城産の物は毛嫌いされるのではないかと思われる。この事故は人為的ミス、つまりその担当者が手を抜いたために起きた災害といえる。そこら編は報道各所で、確認がとれるのでそちらに譲るが、このような状況下でも僕は知り合いとこの件に関してのバカ話をしてしまった。内容は、まぁ、大体想像できる範囲の物だろうと思う。そう、そこのあなた正解。
 今回の事故で、またしても自分に反省の念を押すのは、”対岸の火事”感覚が抜けなかったことにある。例えば来たから降りてきた雨雲などが茨城を通過して都心部で雨を降らせようものなら都内は大なり小なり放射能で汚染される。それ位近い土地で起きていながらTVというフィルターを通してしまったせいか僕にとってのリアルでは無かった。これは、以前阪神大震災の時に言ってしまった事にも通ずる。規模から考えれば、IAEAが日本は体制が整っているからOKとかいいつつも事故の話を聞けば最悪に近いことが分かる詳しい説明はしないにしても、生成上今回のケースでは臨界点を超えている。核防止条約で核兵器の実験でさえ臨界前の状態で実験している事を考えると、これがどれだけ怖いかが割と簡単に理解できるのだが、人はその場に自分もしくは自分の知っている人がいないと、それに恐怖することもないのかもしれないと、感じた。無論それは嘘だろうが、何かメディアの発達と共に、そういった、”感じなきゃいけない危機”の受け止めができなくなってきたりしてるんじゃないのかと思う。
 あ、だから自分の痛みすらも他人の事と思って分裂症がでちゃうのか……。


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