12章 教育を含むあらゆる分野の能率、生産性向上
小学校の算数教育
小学1年のとき、同級の男の子から、十二は算用数字で102と書くのかと聞かれたことがある。その子は十が10であることは知っており、十二は十と二だから算用数字でも発音どおりに「102」と書いてしまったのだ。その子もやがて位取りを正しく理解できた。
最終的に理解したものの、12を102と書いているとき算数が嫌いになったかも知れない。理解できない子がいたからには不十分な教え方だったのだ。こういうものは、単なる図や絵でなく、動く絵で説明すればはるかに分かりやすいと思う。パソコンなら可能だ。大画面に投影し、動く図柄を追いながら説明すれば、クラス全員が規定時間内に位取り概念を理解するのではないだろうか。
位取りでさえ躓くのだから、分数や少数、比例と進むにつれ躓く子はますます増える。こうして算数嫌いが増えるのだ。分数の足し算が出来ない大学生は、忘れたのではなく徹底した理解を果たさなかったのだろう。
分数や少数の概念、計算法、相互の変換方式、などもパソコン画面上の動画表示により、高い学習効果を実現できるかも知れない。効果はひとつに画面構成に掛かっているが、才能豊かな人はいくらでもいるから、画期的算数ソフトウエアができるだろう。既にできていて市販されているのかも知れない。そうなら文部省は紙の教科書にこだわらず、ソフトウエア型教科書を認めるべきだ。ソフトウエア型教科書なら印刷の手間も省ける。採用した学校がダウンロードすればよい。
「理解する」とは心理的に納得することであり、身につくことを意味しない。理解したことを体に覚えこませるには徹底的演習が必要だ。演習こそパソコンに向いている。問題正解ごとに人気キャラクター、たとえばドラえもんが出で来て大げさに誉めてくれれば子供は大いにやる気を出すだろう。
プログラム学習という方法が紙の本の時代に確立されている。プログラム学習はパソコンによる学習でこそ真に有効である。パソコンなら成績を評価し、理解度を把握し、つぎにどう進むか戻るかを判断できるのだ。紙の本では絶対できない芸当である。
膨大な実績データの自動集計、分析ができるので、演習効果と演習問題の質、量に関する貴重な知見が得られるだろう。昔風のペーパーテストに比べ、CbyC環境を活用した教育は、教育実践の場を根本的に変えるかも知れない。
理科教育については算数以上にパソコン効果が大きいだろう。稲の一生を20秒で呈示できる。太陽系の動き、月の満ち欠け、月食の理屈も夏の暑さの原因も動画で見れば明快だ。自然の不思議さ、発明のありがたさ、未知の領域の広さを知らせ、自然科学に対する興味を深めさせたい。
医療効率の向上
資本主義では儲けるために生産する。社会主義では必要のために生産する。だから社会主義が優れている、と社会主義者たちは主張していた。しかし人々が何を必要とするか誰にもわからない。政府の役人にもわからない。また人は儲からない仕事をやりたがらない。だから社会主義は失敗する運命にあった。
資本主義では、生産者が供給する多彩な商品の中から、消費者は気に入った商品を自腹を切って買う。売れるものが必要なものである。売れないものも作ってしまう非効率はあるが、生活水準の向上には資本主義の方が適しているように思える。
ところが健康保険制度に基づく医療システムは資本主義より社会主義に近いのだ。まず自由な商品提供と価格設定がない。厚生省つまり政府の役人による認可が必要なのだ。また消費者は100%自腹を切らない。費用の過半は保険から支払われる。だから評価が甘くなる。さらに消費者は病気のプロではない。
一般に消費者は消費のプロである。ステーキ、ハンバーガー、ラーメンや定食なら頻繁に利用するから、試行錯誤の末、どこの店が良くどこの店が悪いか確信を持って判断できる。しかし病気は滅多にしないから普通人は病気のプロになれない。「あそこの盲腸手術でひどい目にあったからこのつぎ盲腸切るときは別を探そう」という事にならない。盲腸手術は生涯に一回こっきりだ。
@自由な商品の提供、A自腹を切る消費者、B確信ある判定、という資本主義における競争3原則が存在しないのだ。保険制度による、政府に管理された医療システムでは、自由で公正な競争に基づく効率向上は期待できない。効率向上がないから医療費は慢性的に膨張する。先進国の医療保険当局は皆「医療費の総額抑制」に取り組んでいる。「医師にタガをはめる」という表現さえある。
日本の医療現場も競争原理の発動は弱いだろう。そのせいと思われる不思議なデータがある。都道府県別に「一人当たり入院医療費」を調べると「人口10万あたり病床数」と強い相関があるというのだ。平成10年度の相関係数は0.907である。
実際、10万あたり病床数が1000に満たない埼玉、千葉では一人当たり入院医療費が10万円であり、10万あたり病床数が2000を超す鹿児島、徳島では一人当たり入院医療費が20万円である。この統計データをどう解釈すればいいのか理解できない。
「保険医療費の経済理屈」を研究すると非常に興味ある「理屈」が現れてくるに違いない。またそれを把握しないかぎり医療費の膨張原因も判らないし対策も講じられない。ここにCbyC技術の出番がある。
健康保険のインターネット化と民営化
消費者による公正な競争が不可能なので、保険当局が請求伝票の集計・分析を行ない、請求当事者の傾向と質を判断するのである。請求はインターネット経由とし、全伝票データを分析対象とする。現在のコンピュータ能力なら全件分析が可能だ。もちろん地域特性が重要だから分析は地域ごとに行なう。分析結果として、お勧めの病院、医院、薬局と、どう見ても異常な施設と、特徴の掴めない施設に分かれるだろう。お勧めの施設は根拠を明らかにして公開推薦する。異常な施設は保険適用を打ち切る。
これは各国で既に行なわれているし日本でも実験が進んでいるかも知れない。しかし分析対象の全件化は未だ実施されていないだろう。インターネット化はそれを可能にする。分析結果をネット上に公開すれば第三者機関が全国レベルの比較対照を行ない新たな知見を得るだろう。患者情報の保護が重要である。
保険機構を民営化すれば上述の分析はより徹底し効果が上がるだろう。保険機構同士の競争も生まれる。いきなり民営化が無理であれば運営を民間委託し、ある条件を達成すれば報酬を高めると約束すれば運営効率は大いに上がるだろう。
社会主義的色合いの強い保健医療体制に競争原理を持ち込む一つの方法である。認可権をもつ官庁の効率、公正への意欲が重要である。
医療の進歩
医療費は抑制すればいいというものではない。衣食住すべて質の向上とともに支出も増えてきた。医療も質の向上を伴なう費用増は当然だ。美しい病院の快適な病室、最新のシステムによる快癒率の高い治療、丁寧な看護、美味しい入院食、行き届いた応対、このような上等の医療に費用が増えるのは当然であり、それは追加的消費であり国民所得を増やすのである。
上等医療システムが国民所得を増やすには、そこで使用される薬品、機材、施設の大半が国内調達可能でなければならない。すべて輸入だったら、医療費増加は所得増につながらず負担増になるだけだ。心配は日本政府の規制である。革新的医療技術の開発、導入の妨げになるのではないか。次はその一例である。
2001年4月アメリカ連邦航空局(FAA)は自国の航空会社に対し、「自動体外除細動器」の搭載を義務付けることを決めた。航空会社は3年以内に、一定条件以上のフライト全てに、同器具を装備しなくてはならない。航空機内での心臓停止の原因で最も多いのが「心室細動」であり、数分以内に心臓が停止する。早めに瞬間的な電気ショックを与えると正常な調律に戻る可能性が高く、この処置を「除細動」という。
一方、日本ではようやく2001年12月に入って、航空機内乗務員による「自動体外除細動器」の操作を厚生省が世に遅れて認可した。「自動体外除細動器」は電池で動作、コンピュータが心臓をモニターし細動を感知すると除細動する。細動なければボタン押しても電流は流れない。コンピュータが医療の無医師化を進めている状況を当局は認識してないように見える。
健康に死にたい
効果のない支出増を抑制しなければならない。平均寿命が延びても、それが植物人間の存命期間の延長によるならあまり意味がない。旅先で75歳の男性から、実母を看取った話を聞いた。8年間寝たきりだった。最後の3年は植物状態だった。看病に1500万円を費やした。妻にも先立たれ、ひとりで看病したという。
私はある程度の高齢になったら健康に死にたいと思っている。「健康に死ぬ」とは直前まで働き、倒れたら2,3日で死ぬことである。即日死ねたら最高だ。回復の見込みがないのに長期にわたりベッドに縛り付けられ、チューブ漬けになって「生かされている」のは最悪である。
知人の女性が胸部に食道に通ずる穴を開け、そこから食餌を与えられていた。最初そのことを聞いたときどうやって回復できるのか疑問に思った。心配していたとおり、ほどなく死んでしまった。どうしてそこまで延命を図るのだろう。合法的拷問ではないか。いや合法性も疑わしい。末期の延命が拷問になりかねないことを医療機関は認識すべきだ。
食べ物を自分で嚥下できなくなり、しかも回復の見込みが低ければそれ以上無理に延命されたくない。空腹感が快感に変わるような薬だけ投与してもらいたい。
遺伝子治療、クローン技術による臓器形成など延命技術が増え、無駄な治療も増えるだろう。若い患者の治療に万金を費やしても惜しくないが、統計的に死亡年齢に達した高齢者の臨終コストを高めても意味がない。人間は死ぬものである。終末看護に関する本人意思を生前に確定しておく必要がある。遺言の一部に書き込めばよい。電子遺言の供託方法を確立しよう。意思表示ができなくなった時点で終末看護に関しては開示可能にする。
13章 安全性向上
無幣社会の実現
無幣社会とは紙幣、硬貨などの現金がない社会である。
EUは遠大な構想力と驚くほどの忍耐力により遂にユーロによる通貨統合を達成した。 EUのこの努力に比べれば遥かに容易に日本の無幣社会は実現できる。目的は一つ、安全な社会の構築である。余得として現金を扱うもろもろの業務が簡素化される。
強盗、強奪など粗暴犯罪の増加が著しい。なかでも外国人犯罪の増加は頭を抱えさせる。週刊誌「アエラ」は2001年6月11日号に「中国人犯罪」を特集した。この人たちは来日中にたまたま金に困り犯罪に走ったのではなく、最初から犯罪目的に入国したのであろう。最近の検挙率の低さは彼らの成功率の高さを語るものであり、同類の徒の入国増を招くだろう。犯罪目的の入国を防ぐには、犯罪が不可能な仕掛けを構築しなければならない。
無幣社会では強奪の対象である現金が無いから暴力犯は確実に減る。その代り知能犯が増えるだろう。「現金なし」の仕掛けは大きく二方式に分かれる。電子マネー方式と電子決済方式である。
電子マネー方式はマネーの電子化である。電子財布と呼ばれる電子媒体の中にマネーを収容(金額を記録すること)できる。二つの電子財布間でマネーの授受ができる。と言うことは、強盗の対象にもなれるのだ。その意味で電子財布は秘匿性が高く現物マネーに近い使い方が可能だ。
しかし電子マネー実現には法律の整備、国レベルの標準化、高度の信頼性、多額の移行コストなどが必要であり、本格実現までに長期間を要する。英国では95年7月にICカード方式による電子マネーの実験を早くも開始したが、未だ英国内に普及していない。万事保守的で規制の強い日本で実用化するのは容易でない。
他方の電子決済方式は秘匿性に劣るだけあって実現性は遥かに高い。すでに今日、銀行間処理は電子化されている。クレジットカードも電子決済の一種である。電子決済とは売買代金の授受を銀行口座間の資金移動により行う方式である。資金移動は通信網を経由したコンピュータ上で電子的に行われる。つまりCbyC応用なのである。
実用上はクレジットカードで十分、という説がある。治安の悪いアメリカで十分鍛えられたシステムだというわけである。日本でも若者の間ではカード化が進行中だが、社会全体としては圧倒的に「現金社会」である。銀行の自動機の前で札束の出し入れをする人、現金配送車、集金人、店の売上金、家庭の金庫、など強奪対象がいくらでもある。これらを狙った暴力犯罪が急増しているのだ。
犯罪増加は人々をクレジットカードに向かわせるだろうが、クレジットカードは不便さも伴う。一々サインしなければならない、コスト負担がある、小口決済に使えない、自動販売機に使えない、など。したがってカードと現金の併用が欠かせないのである。もっと簡便で便利なシステムが必要だ。
CbyC先進国である北欧では携帯電話でガソリンスタンドの支払いができる。携帯電話はCbyCの突端に位置する器具だから、その気になれば当然できることだ。携帯電話は最初は音声、つぎに画像、ウェブ情報と対象を拡大してきた。その上、決済機能が加わるのである。携帯端末は将来に向けて予想もしない発展可能性を持っている。「携帯電話」から「電話」を省いて単にケータイと呼ぶことにしよう。
ケータイは表示、入力、記憶、計算、通信、電源、以上6機構を備えている。全体を記憶機構にあるソフトウエアが制御している。パソコンに比べて欠けているものはディスク、DVD,プリンタである。消費電力の点で、これらは将来ともケータイには付加されないだろう。
近い将来、無線通信の容量と経済性、信頼性は桁違いに向上するものとする。この前提の下に「ケータイによる最も安全で簡明な決済システム」を考えてみよう。
ケータイの持主は決済用の銀行口座を持ち、その電子的アドレスがケータイ内に記憶されている。
(1)決済
商店にはキャッシュレジスタの代わりに決済のための固定装置が置いてある。これを単にレジスタと呼ぶ。レジスタはインターネットに常時接続している。
a. 店員がレジスタに請求金額をセットする
b. レジスタに客のケータイをつなぐ。情報がケータイに移り、請求金額をケータイ画面に表示する。
c. レジスタあるいはケータイの決済ボタンを押す。
d. ケータイから銀行へ情報が送られ、振込み処理実施後、銀行からレジスタへメール送信する。
e. 振り込まれた金額がレジスタに表示される。
a~eの流れで決済が進行する。許容時間は1~3秒である。 dで銀行に送られる情報は、ケータイ番号、銀行の口座番号、振込先銀行名と口座番号、金額、レジスタのインターネットアドレス、付加情報などである。
処理時間の短縮は重要だ。英国の電子マネー実験では1件の決済に30秒を要したという話が伝わっている。これでは実用にならない。3秒でも遅い。人間が30メートル走れる時間である。性能を決定するものは通信時間である。情報量は多くないが接続回数が膨大になる。日本全体で一日数億回に達するだろう。これだけの追加的負荷に耐える低料金の通信系が必要だ。
自動販売機の場合、商品を選択して料金が確定したのち、ケータイを自動販売機にセットし決済ボタンを押す。ケータイは銀行を呼び処理を委託する。自動販売機側は振込み処理完了のメールを受け取ってから商品を放出する。この方式で鉄道の切符を買うにはのろいので、ケータイでそのまま改札口を通過できるシステムを考えた方がいい。
小口決済の実用化にはコスト低減が必須だ。通信コストが問題、3分8円でも話しにならない。1秒当たり0.05円以下が望ましい。こいう課金が可能な通信システムであって欲しい。
高速決済のためにケータイからの発信を即時受け付ける必要がある。決済情報の文字数は少ないので大きな負荷にならない。決済コールを判定しそれを優先する機能が通信系に要求される。
問題は信頼性である。株のインターネット取引が実用になっている。ある程度の信頼性は実現済みなのだ。この水準の信頼性がケータイでも実現できるか、その水準で十分であるかが問題である。また路上あるいは自宅で強盗に襲われたとき、その場でケータイを用いた資金移動が出来ない仕掛けが必要である。
(2)本人確認
高額取引の場合は本人確認が必要だ。ケータイから特定の機関に接続し、そこに登録してある顔写真をレジスタに送り表示する。
(3)取引記録
商店からケータイ経由で銀行へ上がる情報は決済用データとレシートに記載される情報である。銀行はこれを口座別に記録しログファイルに残す。日ごとの件数も記録する。このサービスは選択的かつ有償とする。先の政治資金透明化で述べた使用実績記録はこのログファイルで代用できる。データ処理のコスト低減は急速なのでこのサービスの実現性は高い。
銀行がデータサービス会社になるのだ。問題は個人情報が洩れることだ。守秘義務を負わせても洩れない保証はない。いまでも顧客情報リストが頻々と横流しされている。
(4)秘匿取引
秘匿用ケータイを別種として設ける。外聞を憚る店で支払うときは秘匿用ケータイを用いる。このケータイは銀行にレシート情報を送らない。銀行は振込み処理後、日時と金額をログし、商店情報を廃棄する。正しく廃棄しているか、第三者機関が抜き打ち監査する。
無幣社会の泣き所は広域災害やサイバーテロによる通信系の機能停止である。予防策、回復策、対抗策を十分に検討しなければならない。それらに多くのコストを払っても、安全性と運用性の向上は社会に大きな利徳をもたらす。
ビットキャッシュを始めネット上で使えるデジタル決済はいくつもある。デジタル貨幣も実験レベルでは国内に登場した。しかし全国的普及は困難のようだ。まず「無幣社会」実現への社会的合意を形成すべきと思う。
消費税の自動更新
前述の仕掛けを用いれば消費税の自動徴収が可能だ。銀行で振り分けて地域の税務署口座に商店名付きで振り込むのである。仕入れ時の消費税の差引きなど、若干の処理が必要だが不可能ではない。徴収の手間が省けるだけでなく、未納を根絶できる。
自動化にはもう一つの利点がある。消費税率の自動更新である。現行5%は欧米に比べて低過ぎであり、食料品を除き10%にすべきだろう。2ヶ月ごとに0.1%ずつ上げる。100ヶ月かけて消費税率を10%にする。レジスタと銀行の消費税率定数を2ヶ月おきに更新すればよいのだ。
消費税率3%から5%への上げは97年4月に実施された。その結果、景気が急にしぼみ成長が止ったとされている。だから税率を3%に戻せという議論が多かった。しかし戻しても景気は戻らなかったろう。不景気の原因は2%アップにあるのではなく、税率が上がる前に消費者が駆け込みでものを買ってしまったからだ。その証拠に96年度の日本の成長率は先進7か国中最高だった。
あるエコノミストは、たった2%の差で売れなくなるのは売る方の努力不足と批判していたが、これは3%に戻せと言うのと同じく見当違いの批判であった。
駆け込み消費が起きるとその後の落ち込みが激しい。駆け込み消費を抑えるには、消費税率の段階的上昇しかない。2ヶ月に0.1%なら、それが8年4ヶ月も続くのであれば駆け込みの気分は起きないだろう。CbyC機能を有効に使えば、スムーズな移行が可能になる。
1962年に訪米したとき、物品購入の外税は10%だった。しかし食料品は無税だった。こういう配慮は必要だ。食料品の税率は据え置くべきと思う。
将来不安の除去
将来に不安を感ずる人が1990年には37%、2000年に68%、10年で倍近くに増えた。失業率も5%を軽く超した。貯蓄不況が本格化した。貯蓄の動機は不安対策だ。不安を払拭しなければ消費は伸びない。3人に2人が感じている不安の最たるものは失業と定年後である。
その上「自己責任」を強調されたら、少ない収入からでも貯蓄しようという気になる。その結果、貯蓄不況はますます深刻化する。
敗戦前後の困窮生活を経験した人は、いざとなれば芋に塩つけて水を飲めばいいと達観できるだろうが、そうでない人たちには失業しても最低限度の生活は保証されるという安心感が必要だ。最低限度とはホームレスにならない、子供を高校中退させない、ということである。少なくともこの程度は社会全体で保証すべきでないか。
年金は賦課方式にする。年金も失業保険も税金で一括負担する。年金と失業保険の税金への統合である。所得税の累進性を少し高める。高齢でも収入が多ければ年金を支給しない。世代間を越え、社会全体で支えあう方式にする。皆で働けば暮らしは良くなるという基本信念を共有する。
身体障害者以外の社会保障、たとえば失業手当、年金、生活保護などの費用は支給ではなく無期限無利息の貸付とし、稼ぐようになったら少しづつでも返済してもらう。
国は個人の税金(所得税、住民税、固定資産税)の納税累計を記録、管理する。
納税累計 ― 貸付累計
が個人の社会貢献である。
高齢者医療資金貸出し制度
年金世代の貯蓄目的は医療費対策である。ほぼ全員貯蓄に励んでいる。年金を貯蓄されると経済は回転しなくなる。万一病気になったら国から相当額の医療資金を貸し出す制度があれば、貯蓄は不要になる。住居改良や健康増進のために出費することができる。高齢者は病院ではなく健康クラブに通うのだ。経済は回転し高齢者は健康になる。
借りた医療資金の返済は借り入れ直後から開始する。完済せず死亡し資産もなかったら国は回収を諦める。年金支給停止が早まったとして我慢する。
日本人を正直にするシステム
ペンダサン著 『日本人とユダヤ人』によるとキャッシュレジスタは「店員を正直にする機械」だという。日本人を正直にするシステムも必要だ。ほとんどの日本人は「衣食足って礼節を知る」人間である。「渇しても盗泉の水を飲まぬ」人は例外であろう。その証拠に、太平洋戦争末期と敗戦後の極度の物的窮乏時には、銭湯も交代で脱衣篭を見張っていた。盗まれるからだ。下足の盗難もしょっちゅうのことだった。
いまの日本の小売業の店頭には商品が山積みされ、モノで溢れかえっている。この商品陳列の仕方は、盗む人が少ないという前提に立っているように思えるが、業種によっては売上げの4%の万引き被害が発生しているという。全国書店の2000年の万引き被害は300億円に達するという。
日本人を正直にするには次のようなシステムが構築できれば良い。
@ 商品に電子マークを貼付する。
A 支払い時にレジスタ前を通過すると電子マークが消去される。
B 他の方法で店内で電子マークを消去できない。
C 電子マーク付き商品を店外へ搬出すると出口でブザーが鳴る。
類似のシステムが既に稼動中だが、対象商品が限定されている。電子マークの大きさ、コスト、貼付と消去の手間などが問題である。バクテリアほどのサイズの自動消去可能な電子マークができたらコストが下がるし、応用も広がるだろう。@~Cの方式は平凡な発想である。もっと優雅な万引き防止策があるだろう。もちろん躾や教育により、こんな仕掛けを不要にすることが理想であるが。
盗難防止システム
自動車盗難が急増し保険会社が悲鳴を上げている。特に高級車が海外への持ち出されている。同じ左ハンドル圏のイギリスで日本からの盗難車が多く見つかっている。
無線通信を利用した盗難防止システムは既に商用に供されているが、コスト高が問題だ。GPSや携帯電話がこれだけ普及した時代だから、安くてエレガントな盗難防止システムを作れないものだろうか。あらゆる車両にGPSとケータイを組み込み、
@ 日本列島から離れるとエンジンが掛からなくなる。
A 一定時間置きに位置情報をサーバに上げる。サーバは指定対応の監視をする。
B 外部からケータイ経由でエンジンとドアを施錠する。
C 特定の指輪を嵌めた人がハンドルを握らないとエンジンが有効にならない。
D キーを暗証番号付きにする。暗証番号は特定のケータイでないと更新できない。
などの機能は簡単に付加できるだろう。問題はこれら機能の無効化、物理的除去をどう防ぐかである。無理に除去すれば車が壊れてしまう仕掛けを構築できるだろうか。@案は中古車として国外に売れなくなる。 A~Dも特にエレガントではない。良案を頭の良い人に考えてもらいたい。自動車に限らず盗難防止は必要だ。バクテリアサイズの電子マークが早く欲しい。
14章 快適性拡大
山紫水明法を制定する
山は青き故郷、水は清き故郷。
古くから日本の山河は山紫水明と言われてきた。江戸末期から明治初年にかけて日本を訪れた多くの外国人が日本の自然の美しさに感銘を受けている。神戸に寄って水の補給に川を遡行した船員は「こんなに美しい川と谷は見たことがない」と嘆じている。 東北旅行をした英人女性は峠から見下ろした里の景色を「これこそユートピアの風景でした」と追想している。
すべてを失った敗戦後にも山河は残っていた。朝鮮戦争で横浜から九州まで汽車で搬送されたアメリカの兵士は沿線の景色を眺め「何と緑の美しい国だろう」と驚いている。市街地は空爆で破壊され尽くしたが、美しい山河は急速に回復したのだ。
そんな日本の自然がゴミと廃棄物で汚染されている。都市近郊だけでなく山奥にも廃棄物処分場が作られ、自然力では還元不可能な頑強かつ大量の産廃と、ダイオキシンや重金属などをふくむ焼却残土が廃棄堆積されている。処理場の底はゴムシートで覆われ、汚水は外部へ漏出しないことになっているが、そんなものが地震と集中豪雨の多い日本で本当に役立つとは誰も思わないだろう。谷川のいかにも澄んだ美しい水が化学物質で汚染されているかもしれないのだ。
合法的処理場でさえ問題なのに今や処理場の絶対量が不足し、行き場を失った廃棄物の漂流と近郊山林への不法投棄があとを絶たない。神奈川県のゴミを満載した船が鹿児島県の港で陸揚げを拒否された。関東内陸部の廃棄物がフィリピンに輸出され現地で強烈な反発を生じた。日本中に溢れた廃棄物が陸と海を漂流し、悪徳業者によって不法投棄されたゴミ・廃棄物が日本の山野を埋める。特に病院からの廃棄汚物・薬品器具の不法処理が危険だ。
遠目には美しい里山が一歩中に入ると足の踏み場もなく廃棄家電が散乱している。緑の谷間が実は処理場の跡地であり、埋め立てた土の下からガスが悪臭と共に立ち昇っている。こんな情景が至るところで見られる。昭和末期から平成時代、飽食の日本人は飽食と贅沢と無節操のツケとして先祖伝来の国土を際限なく汚している。これは山紫水明の故郷を遺してくれた祖先に顔向けならないことであるし、第二次大戦の壊滅的敗北にあっても美しい山河を守ってくれた戦没者たちに申し訳ないことである。
問題は精神的、情緒的遺憾に止まらない。
「水が飲めなくなる」「米が、野菜が食べられなくなる」
この2点が生活を脅かす実害である。この実害は未来世代にまで害を及ぼす点でさらに悪質である。このまま放置したら、現世代(昭和末期~平成の世代)は未来世代からの憤激と憎悪の的になることだろう。現世代は加害者なのだ。
歴代政府と行政はゴミ・廃棄物問題に関して実に冷淡であった。その状況は瀬戸内海の豊島と東京都の日の出町の歴史が物語っている。行政は常に業者に味方し、住民をしりぞけた。たしかに行政はゴミを放置できない。行政(自治体)もごみ処理では困惑し切っている。国の無責任ぶりが目立つのである。
千葉県は県内の海上町に処理場設置を認可、業者に県有地を売却した。当初、県は不認可だったが厚生省が認可した。住民の90%が反対だという。国の住民に対する姿勢は冷淡というほかない。
奈良県のある町は、厚生省が環境基準を強化したため、それまで使用中の処理場の継続使用ができなくなった。新規施設設置には20億円掛かるので一括7億円で若狭の業者に引き取ってもらった。その後に発生したゴミは袋に入れ暫定倉庫に保管中だ。
国の環境規準強化は国の積極姿勢を表しているとは言えない。単なる基準強化は自治体を困らせ業者依存を強めるだけだ。自治体から殺到する引き取り依頼を業者が選別しているという。
国が真に環境に熱意をもって取り組み、未来世代に禍根を残さないとするならば、処理場の立地・運用にもっと具体的に関与すべきだ。最近は自治体と業者との衝突も多い。業者が他市町村のゴミを持ち込むからである。
ゴミ・廃棄物の処理を業者に任せきっていることが最大の問題なのだ。どこの自治体も処理場が逼迫している。もう一刻の猶予もない。ゴミ問題は戦争なのだ。国が国土防衛の一環として取り組むべき対象である。
ゴミ戦争は国家対「ゴミと廃棄物」の戦争である。戦争を業者に任せることはできない。自治体も戦争は取り仕切れない。戦争遂行能力を持つ組織は国家だけである。
国家はまず「山紫水明法」を制定すべきだ。山紫水明法は、ゴミと廃棄物とコンクリートで覆われた日本の山河を日本古来の山紫水明状態に戻すための法律であり、ゴミ・廃棄物については次の基本条項を有する。
@上水用、農業灌漑用取水口より上流沿線に処理場を設置してはならない。
A20年以内に還元技術を確立し、処理場を不用にする。
B50年以内に既存の処理場を発掘処理し、原状に回復する
国は当面使う処理場の立地と還元技術の確立に主体的に取り組む。還元技術はあらゆる廃棄物を利用可能な物体あるいは無害な物体に還元する技術である。
@、Aは現世代の責務である。Bは次世代に頼むしかない。Bまで果たしてようやく「水が飲めなくなる」「米が食べられなくなる」状態が解消されるのである。
@により山梨県や埼玉県など内陸県には処理場を作れなくなる。山梨や埼玉に降った雨は必ず神奈川県、東京都の上水や灌漑水に流れ込むからだ。日の出町の処理場ももう増設できない。山梨県は処理場をどこに作ればよいか。東京、神奈川、静岡のいずれかに作るのが適しているが、これは国が斡旋すべきであり、山梨県民が悩む問題ではない。国は国家全体の処理場配置に関するマスタープランを提示しなければならない。
海沿いの都会地は自分のゴミを近郊で処理すべきだ。都会人はゴミの処理され方を知る必要がある。東京、千葉、神奈川、静岡は東海大地震で発生する大量の倒壊家屋・ビルの廃材処分場を今の内に確保しておく必要がある。この準備は緊急かつ重要である。
観光立国
21世紀の後半、最大の産業は観光・旅行産業であろう。
農業から工業へ、工業からサービス業へ、産業の主役は時代と共に移って行く。ジョージワシントンの時代、アメリカの農業人口比率は92%であった。いま2%である。大型機械を利用する大農方式で生産性が飛躍的に向上したのだ。工業も自動化による生産性向上が日常的に進展している。その結果、工業からサービス業への人口大移動が起きているのである。
人間の愚かさが過度に発揮されることなく平和が続き、生産性向上により休日が増えれば、人間は世界中を旅するようになる。各人が年間で通算一ヶ月以上の旅行に出る可能性は十分にある。今でも2ヶ月掛けて世界中を周航する船旅が商売になっている。旅行、観光が産業の主力に踊り出ることは自然の流れである。もしそうならないとすれば地球上が悲惨な状態に陥っていることだろう。
地球の破滅でもないかぎり観光・旅行産業は隆盛を迎え、国際収支の大きな部分を観光収支が占めるようになる。いま、日本の観光収支は圧倒的赤字である。このまま推移すると将来世代には、国際収支の大幅赤字という由々しい事態が待っている。
日本人の海外渡航者、外国人の来航者を比べると、99年が1636万人対444万人、2000年が1781万人対475万人であり、来航者数の少なさは侘しいかぎりだ。人口の25分の一しか来ない。欧米諸国は桁違いに多い。チェコは人口の10倍もの訪問者があると言う。極東の島国、物価高という悪条件があるにしてもこの少なさは危機的である。魅力に欠けるというしかない。
まず、遠来の客をおもてなしする心遣いがない。その典型が富士山だ。
富士山といえば日本人の心の古里、日本の象徴、観光日本の最高の看板だ。それを、富士と並び称される有名システムである新幹線から眺めるとき、日本人の心なさに絶句するのだ。それは無残としか言いようのない光景である。新幹線の窓から富士山の麗姿が間近く見えるのは、新富士駅前後の10分間だけだ。広大な裾野から山容の立ち上がるさまがよく見える最高の区間だ。ところが、そこに待っているものは観光客には信じられない光景である。沿線のすべての工場と煙突をわざわざそこに集めたのかと思わせる猥雑な工場群が秀麗であるべき富士山を台無しにしている。立ち昇る排煙、統制なく延長される建造物が無遠慮に乗客の視界をさえぎる。殺風景そのものだ。腹の底から怒りが沸き起こる。
外国人には信じられないだろう、この国の住人の無神経さが。私もまたこの情景を日本人並びに静岡県民の恥だと思う。この景色は国益を損なっているだけでなく遥々訪れたお客様に礼を失している。
美しい町
オーストリアのケーブルカー炎上事故で亡くなった少女たちの一人が、事故2日前に絵葉書を故郷の友達に送っていた。「オーストリアの町はこのハガキの絵のようにおしゃれで綺麗」と書かれていた。少女は、日本にはない、町の美しさを認識していたのである。
この少女より幼少の頃、私は佐藤春夫の童話『美しい町』を読んだ。巨額の遺産を相続した芸術家が理想的に美しい街を作ろうと勇み立ち、夢破れる物語である。そのとき私は「美しい町」という概念を理解できなかった。私にとって美しいものとは、自然であり芸術作品であり、人間の顔であった。街が美しいということの意味がまったく理解できなかった。
私は東京の貧しい町の長屋に生まれ「町の美」という概念に縁無く育ったのである。長じてシーザーの「ガリア戦記」を読んだとき、「我が町はガリア一美しい町だ」と言って焦土化作戦に反対する情景に接し、キリスト誕生以前からヨーロッパでは町の美が尊重されていたことを知って感銘した。日本では、町の美に対する理解と要求水準が歴史的に、そして現在も不十分である。オーストリアに散った少女の印象を大切にすべきである。
日本人は美に敏であり醜に鈍である、といわれる。美に敏であることは論をまたない。ゴッホも感嘆した浮世絵の斬新な構図、刀も料理も芸術にしてしまう凄さ、日本人は美術・工芸に対して突出した感性をもっている。短歌でさえ文字で描かれた絵画のようだ。
醜に鈍といわれる所以は街路の頭上に無政府的に張り巡らされた電線・ケーブルとそれを支える無様な電柱の群れ、ところ構わず氾濫する看板である。先進文明国で都市の景観にこれほど無神経な国は日本を措いて存在しない。まさに醜に鈍なのだ。このままではアジアの新興都市の後塵を拝することになる。ここまで醜に鈍なのは国民性に起因するのだろうか。
日本の特徴的芸術に文楽がある。等身大に近い大型の人形を直接抱えて演技する。ときには3人がかりだ。世界中のほとんどの人形芝居は糸や棒で人形の動きを制御する。舞台には人形だけが見える仕掛けを工夫している。そんな仕掛けを一切放棄した文楽は信じ難いほどに独創的である。邪魔者のはずの人間を舞台上であっさり認めてしまったのだ。それでも立派な芸術であることに驚異を感ずる。
同じ発想でわれわれは街路の電柱も認めてしまったのではないだろうか。富士をさえぎる煙突も同類だ。「そこにあるものは仕方ない」のだ。
それが意外な美的効果を生ずるなら許せるが、電柱も煙突も醜悪なだけだ。もう放置できない。現世代が撤去に着手すべきだ。
観光立国の条件
(1) 富士山の回復
富士川周辺の新幹線以北を田園風景に戻す。水田、牧場の合間に農家が点在する景色を復活する。工場、煙突は新幹線以南の海よりにすべて引っ越す。車窓から富士の麓までの景色が、砺波平野の散居村のようになったら素晴らしい。50年も掛ければ完成するだろう。とにかく始めることだ。
またこれ以上富士山を傷つけないでほしい。あるとき、たしか夏場だったが、何年ぶりかに新幹線から富士を見たとき中腹にギザギザの道が付けられて入るのを発見して驚いたことがある。秘蔵の名画を疵つけられた思いがした。もう富士山を傷めつけるのは止めよう。
(2) 電柱撤去
まず京都、東京の2都市から電柱を撤去しケーブル類を地下に埋設する。この両都市で学習してから全国に展開する。どのくらい費用が掛かるだろうか。電力会社に勤める知人の個人的見積もりでは関東地区で20兆円だと言う。それなら全国で百兆円だろうか。失われた90年代にばらまかれた赤字国債をこちらに振り向けていたら十分できていたのだ。
狭い日本の道路事情では工事の困難性が予想される。工具やロボットの開発を含めて生産性向上策が必須である。また埋設時に各戸までの光ケーブルを敷設する。
(3)豊かな日本的暮らしの充実
富士山の回復と電柱撤去は来日する観光客への最低限の礼儀である。これで観光客が増えるわけではない。東京ディズニーランドを目当てに来る人もいるだろうが、やはり日本に来る以上は豊かな日本的体験を望むだろう。それには我々自身が美しく豊かに暮らしていることが必要だ。先祖伝来の和風美に磨きをかけて、日本人の暮しと日本語と日本文化の洗練を心がけたい。
(4)国内旅行の拡大
日本人自身が日本国内を積極的に旅行すれば施設の充実と低廉化が進む。交通、滞在、観光すべての面で選択肢を増やしたい。
(5)海外からの若年旅行者の受け入れ
貧しい若者が旅できる環境が必要。若いときに好印象を得てもらえれば、豊かになってからも来てもらえる。逆効果の恐れもあるが。
(6)多言語サポート
外国人すべてが英語に堪能なわけではない。国籍対応に母国語で案内できれば最高である。電子機器応用も重要である。
(7)環境の改善・維持
コンクリート漬け景色から天然の景観に戻す。並木、林、登山道の整備も大切である。宗谷岬から佐多岬まで自転車専用道を作ろう。百名山登山を楽しみながら日本を自転車で縦断できたら素晴らしい。
人工衛星旅行
観光産業の新しい目玉は人工衛星旅行である。シャトル便で巨大人工衛星に到着し、数時間あるいは数日間の滞在を楽しむ。昼間の地球の眺め、夜の天体の壮麗な景観、無重力体験などいずれも生涯に一度は体験してみたいものである。巨大人工衛星にはレストラン、宿泊室はもとより、無重力を楽しむ仕掛けが数多く工夫されている。地上との交信もできる。
新婚旅行も人工衛星旅行が最高の人気を得る。「宇宙空間の初夜」とか「初体験は無重力で」など夢踊る宣伝文句がネット上を飛び交う。無重力空間では相撲も普通には取れないはずであり、運動感覚がまったく異なる。初体験ならずとも体験したいカップルは多いだろう。
1000人規模の訪問客の滞在を許す巨大衛星ホテルがいつできるだろうか。運送費が膨大だから今世紀も後半になるだろう。まずは数人の団体が地球を数周する程度の小さな商売として始められる。小規模でも儲かる仕組みを構築できれば、事業は次第に成長し、遂には巨大衛星ホテルが誕生する。
衛星旅行より地上の貧困解消が先だという意見もある。地上の貧困解消も衛星旅行も両方とも進めるのだ。両方とも最後は経済問題に帰着するが、前者は政治の領域であり後者は技術領域である。共に進めても矛盾する関係ではない。
衛星旅行は間違いなく巨大ビジネスになる。その先に月世界旅行、火星旅行もある。月は重力が軽いので人気を呼ぶだろう。
人口を減らす
特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が低下している。1947年に4.54であったこの数値が1998年には1.38にまで落ちた。2.0以上でないと人口は維持できないから、日本人口の減少は不可避のようだ。いっそのこと人口削減を日本の政策にしてはどうか。
日本の街並みの醜さ、公害や渋滞などの暮らしにくさの根本原因は過度の人口稠密にある。北欧やニュージーランドは日本の面積比0.7〜1.2倍の国土に350万〜850万人が住んでいる。人口密度が30分の1だ。圧倒的に空いている。これら諸国も都市中心部は結構汚れている。しかし都市を離れれば美しい自然が広がる。
日本では、東海道新幹線で東京から新大阪まで、トンネル内は別として、視界から人家が途切れる時間がほとんどない。美しい自然がない。富士山の前は特に悲惨だ。居住人口が多すぎるのだ。日本の過密な人口が日本人の暮らしの快適さを低めている。
アメリカは人口2倍で面積は25倍、日本より遥かにゆとりがある。ドイツは、人口が日本の65%、面積が94%と日本に比較的近い。しかし日本の60%以上が急峻な山に覆われているのに比べ、ドイツは割と平坦な国である。平野部に限定すれば、日本の人口密度はドイツの3倍以上になるだろう。
先進国では、日本の人口密度は明らかに突出している。土地の価格も異常だ。これで個人の暮らしが豊かになるはずがない。
江戸時代、日本の人口は4千万人であったと推定されている。明治以降130年を掛けて、日本は人口を3倍にした。この人口を百年掛けて半分にしたらどうか。通勤も楽になるし渋滞も減る。我が家の左右が空き地か空き部屋になった状態を想定すれば、その良さがわかる。
日本は4千万人でも十分個性的な文化を育んできた。現在比半減しても6千3百万人いれば、十分固有の文化を維持、発展できるだろう。
半減しても北欧や北米のゆとりには遠く及ばないがドイツには多少近づく。半減すれば炭酸ガス問題も余裕で目標値を達成できるだろう。「百年で半減」という大目標を国民が共有し、政府が計画を建て、将来への影響を予測し、必要な準備を進める。
地球上で人口爆発が憂慮されるとき、日本が率先して人口削減に取り組み、世界に範を示すことは有意義である。(日本人口は放置しても急速な減少が予想されている。しかし政策として減少するのでなければ世界に範を垂らすことにならない。)
半減により「世界第二の経済大国」の地位は失うことになる。中国やインドなど10億人を超える人口大国に経済規模で対抗するのは無理だし意味がない。一人当たりの豊かさや生活の質の高さで世界一を目指すべきだ。援助大国の地位も中国、インドに譲ればいい。両国ともかつては黄河文明、インダス文明を誇っていたのだから再び頑張ってもらおう。小国日本が一国でアメリカ、EUに対抗するのは基本的に無理である。それを可能とした1980年からの20年間、日本は経済史上の真の奇跡を演じていたのだ。
外国人労働者を増やさない
中国とのコスト競争の結果、企業は人件費削減を迫られている。給与水準を低下させたため若者が去り、あとを外国人労働者で埋めようとする動きがある。これは不幸な事態を招くだろう。自由貿易は先進国の賃金を下げ失業を増やす。一度は離れた若者も結局安い賃金で働かざるを得ないのだ。日本人と外国人が仕事を求めて争う事態を招いてはならない。
外国人労働者受け入れ先進国のヨーロッパも後遺症に苦しんでいる。高い失業率に悩む若者との間に緊張関係が生じている。日本はもっと深刻な関係に陥るだろう。
「アメリカに留学するとアメリカ好きになり、日本に留学すると日本嫌いになる」と中国人が言っている。アメリカの広さと移民が作った建国理念は外国人居住者の精神に解放感を与え、日本の狭さと日本人の内部意識は外国人居住者の精神に緊張感を与えるのだ。日本はアメリカほど解放された国でないことを、日本人は自覚すべきだ。
ましてや人口半減の計画があるとき、外国人労働者導入の意見は根拠を失う。高齢者比率が高くなり介護用労力として必要との意見もあるが、自国の福祉を自国民で賄えないような国は存在資格がない。自国の繁栄を地球資源の浪費に頼ってはならない。地球資源の中でも最も貴重な人的労力を安価な海外に依存することは論外である。
夏目漱石が四国の中学に英語教師として赴任したときの給料は校長より高かったという。明治のお雇い外国人も大臣より高給だった。われわれも明治人に倣い、安い労働力でなく超一流の外国人教授を学長より高給で招請しよう。そして外国語で講義してもらえば留学生にも日本人にも役立つ。
21世紀は国境の壁を低くして行くだろう。日本も生活水準の近い近隣諸国と自由に相互移住できるようになるといい。しかし低賃金国からの労働力調達をしてはならない。
少子化対策
人口半減を期すとしても現在の少子化は急すぎる。緩やかにする対策が必要だ。CbyCによる省力化の結果生じた余剰人員を保育能力に転換しよう。保育所の数を増やすだけでは役に立たない。幼児はよく熱を出す。その度に母親が呼び出されては仕事にならない。母親が落ち着いて働ける環境を確立すべきだ。
職場と育児は両立しないから、一時的に母親は家庭に戻り育児に専念すべきという意見がある。ある女性識者もそう言う。しかし働きたい女性には働く権利がある。多様性を認める日本でありたい。
週休三日制
生産性が上がり需要はすぐ飽和する。新商品もそう簡単に生み出せない。土地ネックで量的拡大もできない。職場は狭くなる一方だ。そこに空洞化が追い討ちを掛ける。失業率の上がる要因はあっても下がる要因は当面考えにくい。
いま5%強の人が失業している。この人達は失業保険を貰うか預金を取り崩して食べている。それでも日本社会が回転し続けていることは、この人達が物理的に働かなくてもよいことを示している。ものは考えようである。
失業は働き場所がないのではなく、働かなくてもよいのだ。これだけ自動化が進み効率が上がれば、就業時間が減るのは当然である。時間減少が特定の人に集中した結果が失業である。 週休3日制にすれば、給料は20%減り、職口は20%増える。給料が減っても失業者が増えるよりはましだ。
週休3日制は企業の管理コスト、負担を増やすのでその分効率を上げなければならない。週休3日制導入は業界主導が望ましい。国際競争の比較的緩い産業、たとえば交通、建設、教育、外食、流通などから始める。
自動車、電機、半導体などに国際企業は国際的合意がないと難しい。トヨタなど強い企業が単独で率先遂行できれば最高だ。
週休3日にすれば、数字の上では就職口が2割以上増え、失業はなくなる。国民がその気になれば21世紀中に週休3日どころか週休4日を実現する可能性は高い。
日本のように国土が狭く人口の多い国は休日増加に関して有利である。ニュージーランドとの比較で考えてみよう。
ニュージーランドのように僅か320万人で一国の体裁を整えるのは大変なことである。政府を組織し、国連に代表を送り、軍事・外交を一国並に行ない、オリンピックにも参加し、国内にあっては道路・鉄道・港湾の整備、飛行場の建設・運営、治安の維持、長い沿岸の警備、教育・福祉・徴税・医療・郵便の運営などなど、すべて320万人でやりくりするのは本当に大変だろう。
日本は40倍近い人口を有するので、ニュージーランドより少ない1人当たり負担でこれら業務を遂行できる。過密であることに起因する余計な仕事もあるが、過密であることの効率性の方が大きい。
人口過密国日本はニュージーランドほど豊かな自然を楽しめない。しかしその分、ニュージーランド人よりうんと楽をして普通の暮らしを立てられるのだ。現在そうなっていないとすれば、それは日本人が頭を使っていないからだろう。
今でも実質的に週当り休日の多い人がいる。政府系法人の理事や銀行の顧問たちの中にはほとんど何もせず高給だけ食んでいる人がいる。こういう不公平をなくし、本当に働く人の時間給を高くし、週休3日でも家族を養えるようにしなければならない。見習は別として、最低時給2500円とする日本国を建設したい。
週休3日制は余暇を増やす。国民に楽しいことをする時間を与えてくれる。自ら楽しむことが所得増につながることを国民が理解すれば、そして官庁が余計な口を出さなければ、観光を始めとする余暇産業が必ず発達するだろう。日本は世界最初の週休3日制導入国として世界のモデルになる。
必要なモノのための労働を4日で終え、残りの3日を人生の充実と楽しみに充てる。楽しいものは必要なモノに比べて実に対照的な特性をもっている。
楽しいものは幾つあっても良い
楽しいものはいくつあっても良い。役に立つものは一つあれば十分だ。
その仕事に本当に必要なものは一種あれば十分なのだ。地球的規模でもそうだ。パソコンにおけるWintel連合がその典型だ。チップはインテル、OSはウインドウズという組合せのパソコンが世界の90%以上を占めている。マックもリナックスも併設したいというのは余程特殊な用法であり、普通はどれか一つで十分なのだ。
競争による品質向上のためには供給側が複数あることが望ましい。ウインドウズOSが価格、性能、信頼性、サービスの面で万全の運営をしていたらリナックスの誕生はなかったかも知れない。実際問題として、いざ使う段になれば特定一種が選ばれることが多い。両立性や統一性を考慮すれば、圧倒的シェアを占めているOSが選択されるのが自然である。
家庭用洗濯機も一家に一台あればよい。全メーカーのものを各一台ずつ並べておきたいという要求は考えられない。車でも精々2台だ。必要なものは必要個数あればそれで十分であり、直ちに飽和点に達する。市場の容量が固定的だ
一方、楽しいものはいくつあってもよい。
CDプレーヤーは一台でよいが、楽しいCDは何千枚あってもよい。同じ曲でも演奏家が違えばまた別の楽しみだ。一見飽和状態の市場でもヒット商品が誕生すれば爆発的に売れる。古い話だがダンゴ3兄弟がその例である。市場容量に弾力性がある。
またローカル性が存在意義をもつ。映画俳優には世界的スターだけでなくローカルなスターもいる。日本のスター、インドのスター、香港のスターなど地区ごとのスターが存在し得るのである。本来、娯楽は地域性の濃いものであった。地域的娯楽が地球的規模で認知されるにつれ、娯楽世界の銘柄が豊かになる。マンガもカラオケも日本地方の娯楽であった。
楽しいものは排他的でなく、似たようなものが同時に共存できるのである。二者択一ではないのだ。消費者の新たな満足が得られるものならいくつあってもよいのである。
役に立つものはそうは行かない。むき出しの競争にさらされ少しでも優れたものだけが生き残る、厳しい選択の世界だ。
殆どの男性にとり靴は役に立つものだが、女性にとって靴は楽しいものである。元フィリピン大統領夫人の3千足という数は例外的だが、楽しいものであるという本質を見事に表している。いくつあってもいいのだ。
衣服は、暖を採るという実用面が若干は残っているが、ほとんど装飾品になってしまった。服飾品と呼ばれるようになり、多くの女性にとって最大の楽しみの対象である。
ケータイの使われ方は実用一点張りでなく楽しみの面が大きい。若者たちの用途は必要不可欠の連絡より他愛もないおしゃべりのほうが圧倒的に多いのだ。
乗用車は交通不便な地方では必需品だが、都市部では必要不可欠とは言い難い。それでも殆どの家庭が所有しているのは、楽しみの面が大きいからだろう。だからスタイルや色が重要な要素になる。楽しいものとして複数台あってもよいのだが、都会では駐車場ネックである。
平和が続き世の中が進歩し、休日が増えれば、楽しみ向け商品が増える。C係数産業の時代だ。デジタルコンテンツもその一環だ。必要産業が飽和傾向にあるのだから、楽しみ産業に転向するのは意味がある。楽しみ産業には余暇が不可欠なので週休3日制は一石二鳥といえる。
日曜労働者
20世紀中頃、新聞に「チャーチル会」の発足が報じられた。日曜画家の会である。第二次大戦中の英国宰相で日曜画家としても有名だったウインストン・チャーチルの名を冠したものだ。日曜画家というからには普段は働き日曜だけ絵描きになるということだろう。私はそのとき確か中学生でありその記事を見て、「どうせなるなら日曜労働者になりたい」と思った。日曜だけ働いて暮らしが立つようになりたいということである。文明の一つの到達点が日曜労働者だと考えた。
日曜日以外は何をするか。教会に行く、絵を描く、ボランティアをする、大学に通う、湯治に出かける、パチンコをする、スポーツ、旅行、演劇、手芸、園芸、まあ何でもいい。18歳の娘さんや中年男性が量子力学を勉強するのも素晴らしい。多くの人々が好きなことをやる。今は不安だらけだが21世紀の日本をそんな社会にしたい。
日曜労働者(週休6日制)は経済発展の究極的姿である。人間の愚かさに際限はないが賢さも相当なものである。週休6日制を実現する程度の賢さを人間は持っていると思う。
おわりに
CbyCという新語はコンピュータを用いたコミュニケーションを意味し、“コミュニケーション革命”の本質を捉えた記号である。コミュニケーションが革命を迎えたのはCbyC技術のお陰だ。
コンピュータ導入初期の頃は、通信は高価なコンピュータを効率よく使うための存在であった。communication for computer である。その後、情報の共有が重視され、コンピュータと通信が同列になった。computer and communication の時代である。
マイクロプロセッサの誕生により、コンピュータの役柄が変わった。コンピュータは“繋ぎ役”になり、コミュニケーションが主役になった。
communication by computer である。CbyCはこの3語の略称だ。CbyCは20世紀後半に始まった。本格化は21世紀に入ってからである。21世紀はCbyCの世紀だ。
この時期にCbyC技術が発展したことは日本にとって天佑と言ってよい。少子化、高齢化、環境悪化に悩む日本の救世主的技術になる。本書はそのことを具体的に述べた。ここで全体のまとめとして、コミュニケーション革命の意味と意義を整理しよう。
コミュニケーション革命の意味
コミュニケーション革命をもたらしたものは、デジタル化とコンピュータの量的縮小である。
量的縮小は劇的スケールと速さで実現し、コンピュータはコスト、重量、消費電力とも極小化し、システムの中でネジ同様の部品になりつつある。
デジタル化はハードウエアとソフトウエアを完全分離した。ソフトウエアとは人間が作った重さの無いものである。20世紀前半、ソフトウエアはその種別に応じ、紙、フィルム、レコードに記録され、統合不能であり重量も伴なっていた。
デジタル化により、ソフトウエアはその種別にかかわりなく2進情報化され、統合制御が可能となり、重力からも解放された。
統合化と無重力化、この2点がまさに革命と呼ぶにふさわしい変化をコミュニケーションに与えたのである。そして量的縮小と高速化・大容量化が革命を一般化した。
量的縮小に併行して大容量化も急激に進んだ。メモリの販売単位はKB(キロバイト)からMB(メガバイト)に変わった。将来、GB(ギガバイト)になる前にkg(キログラム)になるかも知れない。
産業革命は筋力と手技の機械化であった。コミュニケーション革命は脳と神経の機械化であり、プログラム内蔵方式の採用により機械〜機械、機械〜人、人〜人のコミュニケーションを自動化可能にした。
コミュニケーション革命の意義
政治経済的効果が大きい。ハードソフト格差により本質的に遅れている政治経済ソフトウエアに若干の進歩をもたらすだろう。
政治的効果は、個人の発言力、社会の透明性、社会の安全性、教育効率、などの劇的増大である。個人のHPに記載された商品批判に大企業が屈服する。日本人の議論べたもインターネットで多少改善されるかも知れない。
経済的効果中最大のものは、最適組合せの実現と単純事務作業の消滅である。コミュニケーション革命以前には、買い手と売り手は必ず人手を介して結ばれ、売買手続きも人手に依存した。今は買い手のみがパソコン画面に向かい、売り手を煩わせないシステムが常識になった。人は皆、汗をかくか知恵を出すか迫られる。単純事務は消滅の運命にある。
今後の日本は、少子化、高齢化の対策、廃棄物処理など汗をかく仕事が増える。一方労働人口は減少する。昔なら海外移民の受入れが必要になるところだが、単純事務要員の移行で解決可能だ。
少子化、高齢化、環境問題で日本が世界の先頭ランナーになろうとしている。まさにこのときコミュニケーション革命が本格化したことは、日本にとり非常な幸運である。日本はコミュニケーション革命技術でアメリカに遅れをとった。しかしコミュニケーション革命の活用で先頭に立つことができる。若い日本人の活躍を祈る。
cbycの世紀 おわり
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