第1章:なぜ私がコミックソングを支持するか (2004.10.11) NEW
第2章:推薦曲集〜私的編集アルバム風解説〜
私にとって音楽は自分自身と切っても切り離せないものである。一口に音楽と言ってもいろいろなジャンルがあるが、例えて言うなら、クラシックは私自身の存在そのものと切り離すことの出来ない、いわば血か肉体のようなものである。息あるいは空気かもしれない。それ以外の音楽は細かく挙げるときりがないが、自分自身を取り囲む環境とでも言えるだろうか。では、その環境の中でコミックソングは何かと言うと、「本」である。折に触れては読み返し、中には暗誦しているものもある。楽しませてくれるだけでなく、時には人生の指針をも示してくれる。ちょっと大仰な感じもしないでもないが、だいたいそんな感じの位置づけである。
なぜそこまで好きなのか。歌詩は下世話なものが少なくないし、音楽として低レベルではないか、という批判をよく言われる。しかし、前者は好みであるから仕方ないが、後者はそう決め付ける前にもっと色々な歌をよく聴いて欲しい、と言いたくなる。
コミックソング・冗談音楽に限らずどんな芸能においても、聴衆(観客)を笑わせるということは実は非常に難しい技能である。内容が高尚とは言い難い場合が多く、演じ手そのものが笑いの対象となることもしばしばあるため、笑いを取るという作業は非常に簡単だと思われがちだが、落語にしろ漫才にしろ、はたまた喜劇でも文章でも、他人を笑わせるということは非常に高度な技術を要することなのだ。学芸会や宴会余興といった笑いを演じる「場」が我々の生活の場から手の届きやすいところにあるからそうは思えないのかもしれないが、笑いの道というのは、入口は広いが、少し進むとすぐに細くなり、奥へ進めば進むほど先が見えない孤独で険しい、笑いそのものとは正反対の道なのである。
だからどんな「笑芸能」(by高田文夫)であっても、「笑いをとること」という結果に至るまでの間に様々な仕掛けを用意する。シナリオのない笑芸能はない。アドリブにしても、形の上で台本が無くとも演者の中には用意されたパターンがあって、それらのうちどれを使うか、あるいは複数組み合わせて組み立てていくかということに過ぎない。引き出しを沢山持っている、とよく言われるが、まさにそのことである。まして、生(なま)本番=ライブでの上演を前提とする芸能ではなく、文章や録音音楽という、記録型の芸能であればシナリオを固定する以外に方法はない。ギャグがすべってもアドリブで取り返すことができないのである(中にはそうでない形態もあるが、結果として記録された時点で固定されてしまうから、純粋な意味でのアドリブとは少し異なる。)だから、ライブを前提とする芸能以上に練り込まれ、考え抜かれた芸能であるという見方も出来る(誤解のないように書いておくが、ライブを全体とする芸能にも、毎回異なる環境―特に観客―に応じて「間(ま)」を変えるという高度な技術が必要なので、優劣の比較を意図している訳ではない。あえて言うなら、最後の微調整という演者の随意部分が多いのがライブ型、少ないのが記録型ということではないだろうか)。
それを踏まえて記録型笑芸能であるコミックソングについて考えてみたい。コミックソングの構成要素は歌詞と音楽と歌手である。伴奏は演者の形態により変化し、音楽にも歌手にも入るので、先に挙げた三つが基本構成要素であると考えることにする。ここでは作詞家と作曲家と編曲者を総合して作家と称することにするが、この作家が考えたシナリオに基づいて歌詞と音楽を操るのが歌手ということになる。
では、歌詞と音楽とはどのような関係にあるのか。コミックソングは冗談音楽の一部であるが、コミックソングの特異なる点は歌詞主導という点である。歌詞そのものがまず笑いをとれる内容でなければコミックソングとして成立しない。しかし、それだけでなく、歌詞の面白さをいかに引き立たせ、増幅させ、さらには記憶に残りやすくするかという点において、音楽の果たす役割は非常に大きい。これは素材をどう料理するかということに通じる。いくら高級素材(=笑いをとれる歌詞)を手に入れても、それを調理する道具(=旋律)がなければ料理にはならないし、最適なスパイス(=編曲)が加味されなければ味気ないものになるということである。全ての材料と道具が揃い、実際に調理する人間が歌手であり、調理法が歌手の表現力なのである。
その点において、他ジャンルの音楽との共通点もあれば相違点もある。歌というジャンルで音楽は本来、全て上述のような役割を担っていた。しかしこと流行歌というものはどうしてもそういう部分が抜け落ちやすい。詩のイントネーションを無視した旋律。詩や旋律を引き立てるのではなく、ただ音の厚みを与えるだけかのような編曲。挙句の果てには歌詞そのものがやっつけ仕事だったする。バブル全盛の頃、いわゆる「売れ線」のメロディーを切り貼りして作ったような曲がよく売れたものだった。ウレセンの中でも一番耳に心地よい旋律の部分がサビとなり、CMとのタイアップで繰り返し流されるのだから当たり前の話であるが、そういう曲が垂れ流されていた時代があった。ちょうどその頃はデジタル音源による重厚アレンジが持てはやされていたから、私にとっては耳が疲れるばかりで嫌だった。クラシック好きだからなおさらそう感じたのかもしれない。しかも歌詞は薄べったい内容で、右耳から左耳へそのチープな音楽と共に抜けていくような感じだった。
私がコミックソングと本格的に出会ったのはそんな時代だった。そういう、やっつけ仕事の塊みたいな曲が大手を振って歩いていた時に、生オーケストラをバックに明るくよく通る表現力豊かな歌声にのって、言葉の数は少ないが力のある日本語が踊り、そこに時折コントが絡む。モノラル音源なのにとても輝いていて、心を鷲掴みにする。そんな音楽がラジオから流れてきたのである。その時の私の衝撃がいかに大きなものだったか、それを一言で言うと「世の中にこんな音楽があるのか!」だった。その曲の名は『こりゃシャクだった』である。あのハナ肇とクレイジーキャッツによる、コミックソング史上燦然と輝く金字塔『スーダラ節』のB面に録音されていた曲である。つまり私はスーダラ節より前にこの曲を聴いた訳である。当然のことながらその後オンエアされたスーダラ節にも『ハイそれまでョ』にも圧倒され、以来私はコミックソングの虜となった訳である。その後2年ほどしてクレイジーがリバイバルブームとなり、1990年大晦日のNHK紅白歌合戦には、クレイジーの往年の名曲をメドレーにした『スーダラ伝説』を引っさげて植木等が登場し、「ピコピコサウンド」に慣れた若者(まあ私も同世代であるが)をも虜にしたのであった。
話が横道にそれたが、コミックソングとは、聴衆その他の環境によって変化させることができないか或いはその部分が非常に少ないという制約の中で、考え抜かれた歌詞を持ち、芸術的歌曲とも通じる手法で練り上げられ、選ばれた者によって表現される音楽笑芸能なのである。他人を笑わせるという使命故に言葉を大切に扱った歌詞と音楽が、高度に計算され尽くされた形で結実した音楽なのだ。これがやっつけ仕事のアイドルポップスより音楽的に下だと言われて黙っていられるはずはないのである。