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chachakyの
音楽書き散らかし放題
(演奏編1)

私chachakyが音楽について書き散らかした文を集めました。
ここでは、私が演奏という行為をどう考えているかという抽象的な話題から、
     演奏上の悩み、奏法についての考えなど具体的な話題まで、
私自身の演奏に関わる文章を集めています。



8 音楽の流れに乗るという意識(2003.11.11)
7 「表現すること」とは?(2003.8.17)
6 アマオケは「人」次第(2002.10.29)
5 『誰がヴァイオリンを殺したか』書評(2002.8.7)
4 父親になることと、音楽との関わりについて(2001.3.11)
3 楽器演奏のためのフィジカル管理(原題:「ぎっくり腰体験」)(1999.4.2)
2 音楽をやることの意味(原題:「最近考えたこと」)(1998.7.19)
1 練習成果を本番で最大限発揮する方法(原題:「本番近し!?裏技公開コーナー」)(1997.12.20)
     
     

書き散らかしその1:練習成果を本番で最大限発揮する方法(『e-mailかわら版』vol.8〔1997年12月20日発行〕より抜粋、「本番近し!?裏技公開コーナー」より改題)

   ※『e-mailかわら版』とは、私が千葉フィルのコンマス時代に作っていた非公式のメールマガジンもどきです。

 さてさて、今回は特別に私の秘技(?)をお教えしてしまいます。題して 「本番近し! ?裏技公開コーナー」!!。

といってもそんなに大したもので もないのですが・・・。

 今回のテーマは、「本番で最大限の演奏をするためには?」です。当然、 私たち演奏者にとって永遠の課題

である「アガリ」を克服する方法も含ま れています。乞うご期待!!!・・・。

 本番というのは、大ホールでの演奏会に限らず、結婚式や宴会の余興、 内輪の発表会など、規模にかかわらず

いつもの力がなかなか発揮しきれないものです。しかし、うまく気持ちがのってくれば、いってみれば「心技体が

充実」していれば、普段の力が発揮でき、場合によっては普段よりも 素晴らしい演奏ができる場合もあります。

ライヴの場合、曲の内容にもよりますが、難しいパッセージが必ずしも完璧に演奏できなくても(めちゃくちゃでは

だめですが)聴衆を感動させることは大いにあり得ます。

 それを頭においた上で、自分の力を最大限に発揮するにはどうしたらよいか?ということを考えますと、次の

3つが大事だと言えるでしょう。

 ベストの体調で臨む。

   ケガや病気はもちろんいけませんが、単なる二日酔い、寝不足、 疲れもよくありません。それから、空腹や

  満腹もよくないですね。

   ただしこれはどちらか一方だけを選べと言われたら、私は空腹をとります。満腹だと、いまいち体のキレが

  良くないし、思考能力も低下するからです。曲によっては眠くもなりますし。とはいっても空腹だと力が出ま

  せんから、やはりどちらも避けなければなりません。   

 必要以上に緊張しない。

   適度の緊張がなければ、どことなくやる気のない演奏になるし、 態度にも出てしまうのでふてぶてしい、

  あるいはだらしがないという印象を聴衆に与えてしまいます。

   ただし、多くの場合緊張しなくて失敗するということよりも、 緊張しすぎて失敗することのほうが多い訳

  です。

 たとえ一番後ろで演奏していても、世界は自分中心にまわっていると思い込む。

   弾けてなくても、誰からも責められるわけではない、なぜなら自分自身がルールブックだからだ!と思えば

  気が楽になり、萎縮することなく、いつも通りのびのびと演奏出来るというものです。 ただし、練習の時は

  謙虚にならないと上達しません。念のため。

   では、必要以上に緊張しないためにはどうしたらよいか?

 演奏内容に迷いや不安を残さない。

   「さらってあれば緊張しない」というのは一面では真実ですが 必ずしもそれが全てではありません。

  さらった量よりも質が問題 です。

   譜面が多少難しくても、どの箇所の何が難しいのかということが わかっていて、それ以外の問題が全て

  クリアできていれば、意外に緊張しないですむものです(ただし、それに加え、第2項の事も必要ですが)。

   また、最後までボーイングや譜めくりのタイミングなどを決めかねていたりすると、緊張はするわ、本番

  でも間違えるわで 良いことは一つもありません。   

 見栄を張りたい友人・知人を呼ばない。もしくは呼んだことを忘れる。

   失敗したら恥ずかしいと思うから緊張するわけだから、失敗しても恥ずかしくないと思えばいいわけです。

  が、なかなかそれはできない。ですからまず身近なところで、失敗したら笑いそうな輩を呼ばなければいい。

  諸般の事情でどうしても招待しなければならないのであれば、招待したことは本番2日前から本番終了後までの

  間、記憶から消しましょう。師匠を招待した場合は、どうせ自分の弱点は知っているんだからと開き直れば

  よいのです。

書き散らかしその2:音楽をやることの意味(『e-mailかわら版』vol.11〔1998年7月19日発行〕より抜粋、「最近考えたこと」より改題)

   ※『e-mailかわら版』とは、私が千葉フィルのコンマス時代に作っていた非公式のメールマガジンもどきです。

 先日、2月に行ったきりさぼりっ放しだったレッスンに行ってきました。 その日の課題はリヒャルト・シュト

ラウスのソナタの2楽章。弾いていると、 先生に止められました。また音程違ったかな、と思っていると、

「chachaky君にとって音楽ってどういうもの?」という質問。いきなり何?という感じでしたが、 「無いと困る

もの」といつも思っている通りに答えました。 そこから、先生のいろいろな話が始まった訳ですが、要するに

先生のおっしゃりたかったことは、 「自分の演奏を聴いた人が、明日からの生きる活力を感じられるように、

つまり音楽の演奏を通して聴衆に生の素晴しさを伝えることを考えて演奏しなさい、 その為には常に『(いつか)

聴いてくれる人』 の存在を常に意識して弾きなさい」ということだったのです。

 さらに、それに関連してこんなことも言われました。 日々の生活の中で感じたことを音楽に込めて表現したり、

逆に音楽から得たことを生活に応用しなくてはならない。 ただ音符を演奏するのではなく、伝えたいことを持ち、

それを音楽を通して伝えなさいと。

 いやあ、難しい課題を頂いてしまいました。今までに、 「ホールの一番後ろの席に大切な人を想定して演奏しな

さい」 ということを(他の先生や指揮者・先輩に)言われたことはあります。 ただしそれはあくまでも音づくりの

ためのこと、大ざっぱに言えば技術面でのことであり、 今回のように精神面での話ではありませんでした。 歌を

器楽にアレンジした曲であれば、元の歌詞を調べて、その歌詞を伝えるつもりで弾くようにしていますが、そうで

ない曲の場合、 曲自体に感動しながら、その感動を感じて欲しいと思いながら弾いているだけで、 そこに音楽

以外のことの思いを込めて演奏したことはありませんでした。 また、そういうふうにしようと思ったことも、正直

ありませんでした。

 先生はさらに、プロはそれ(聴衆に生の素晴しさを音楽を通して伝えること)が仕事だけれども、 アマチュアで

あってもある程度(作曲家が書いた)音楽が再現できるようになったら、 そういうことも考えなければね、とおっ

しゃっていました。

 言われてみれば確かにそうなのかもしれません。 アマチュアなのだから、楽しむことがまず第一です。 しかし、

特例を除けば、音楽は聴く人がいて初めて成立する芸術です。 聴いてくれる人=聴衆の存在なしには音楽は存在

できないのです。 聴衆が感動して、こんな素晴しい演奏が聴けたから明日から頑張ろう、 あるいは、こんな素晴ら

しい音楽をまた聴きたいから頑張って生きて行こう、と思わなければ、 音楽の存在基盤は危うくなります。

 聴衆にどうやって感動を与えるかを考える時、どうしても完璧なテクニック、 緻密なアンサンブル、といった

技術面を考えてしまいがちです。もちろんそれらも大事ですが、 その上にさらに、伝えたいこと、感じて欲しい

事があることが必要なのだと思います。 そこで私が気づいたことは、日々の生活から音楽の世界に逃げようと

考えるのは誤りで、 実はそれら二つは不可分のものなのではないだろうか?ということです。 もちろん、日々の

生活の中で生じたストレスを発散するために音楽と付き合う、というのが間違っているとは思いませんが、 全く

別のものとして捉えてしまうのはどうやら違うようです。

 しかし、ここまで書いておきながら、具体的にどうすべきか、 例えば今度の千葉フィルのサマコンのそれぞれの

曲で何を伝えるべく弾けばよいのかはわからず、 悩んでしまっているのであります。今思っているのは、 本来こう

いうことは指揮者の仕事なのでしょうが、 それとは別にオケのメンバー一人一人が自分なりに伝えたいことを抱えて

演奏すれば、 技術的にどうこうというのとは別の次元で、いい演奏ができるのかもしれない、ということです。

 このことは、アマチュア音楽家として活動していく上で、考え続けたいと思います。

書き散らかしその3:楽器演奏のためのフィジカル管理(『e-mailかわら版』vol.13〔1999年4月2日発行〕より抜粋、「ぎっくり腰体験」より改題)

   ※『e-mailかわら版』とは、私が千葉フィルのコンマス時代に作っていた非公式のメールマガジンもどきです。

  隠すこともないので書きますが(もう既に御存じの方も多いと思いますが)やってしまいました。不覚にも。

まさかこの歳でやろうとは・・・。(因に私は見た目はともかく実年齢は30未満<もちろん記述当時、です)

  丁度その日、実家で友人たちとカルテットの練習があり、そのセッティング中に物を動かしたはずみでやって

しまいました。おかげで練習はできず、さらにその後予定されていた(千葉フィルの)パート練も中止する羽目に

なってしまいました。

 痛くて動けなくなるとは前から聞いていましたが、想像していた以上に動けませんでした。なにしろ腰が言う事を

聞かんのです。腰が痛いから歩くことはおろか、立つことさえできないのです。トイレへ行く時は腕の力で這ってようやく

行く事ができ、『寝たきりのご老人などはこういう訳にもいかないんだろうなあ』などと考えてみたりもしていまし

た。会社も2日休みましたが、なにしろ腰以外は健康なのに安静にしていなければならないので暇でしたね〜。おか

げでだんご3兄弟を覚えてしまいました。その後だんだん回復し、2週間後には完全に元に戻りましたが、あの悪夢は

二度と繰り返すまい、と毎晩腹筋・背筋を鍛えております。

 さて、だからというわけではなく、前々から感じていた事ですが、我々楽器奏者も筋トレが必要だと思います。

楽器を弾くということは、実は結構な運動ですから(ただし局部的ではありますが)、準備運動が必要なのは当然

です。

また、演奏に必要な筋肉というものもありますから、その筋肉を鍛えることが演奏技術の向上につながるわけです。

 演奏技術向上の面から言うと、弦楽器は右腕の筋肉が重要です。特にヴァイオリンやヴィオラの場合、右上腕の

筋肉を有効に使った弾き方ができるようになると、楽器を楽に鳴らすことができるようになります。その為には

当然、その奏法に耐えうるだけの筋力をつけておく必要があります。

 リハビリ面でいうと、昨年出版された『弦楽器奏者の痛みと対策〜回復のための健康リハビリテーション〜』

(荻島秀男著、レッスンの友社刊)は非常にためになる本です。著者は医学博士でありセミプロのピアニストでも

あるらしく、また、数多くの弦楽器奏者の診察を行った経験から、わかりやすく、また的を絞った記述がなされて

います。いろいろな体操も図解入りで載っていますので、ぜひご一読をお勧めします。

書き散らかしその4:父親になることと、音楽との関わりについて  (2001.3.11)

 とうとう私も父親になります。日に日にお腹の大きくなる相方を見ていると、生命の神秘というと大袈裟だなあ、

まあ生命の不思議、くらいが適当でしょうか、そんなものを感じてしまいます。1ヶ月ほど前に伯父が亡くなった

こともあり、また、今ピアチェーレで取り組んでいる「大地の歌」のテーマにも通じることから、ここのところ、

人の生死ということについて考える事が多くなりました。

 そんな日々の中で、最近考えている事は、子供が産まれた後の生活についてです。当然子供を中心に時間が過ぎて

行くことだろうな、というのは分かっていますが、その中でいかに音楽のための時間を確保するか?ということが

最大のテーマとなっています。

 今まで(子供が出来る前ですが)に人生の諸先輩からお聞きした意見の殆どは、「趣味より当然子供優先」で

「だから趣味はお預け」でした。まあ、「趣味より子供優先」は間違いないでしょうねえ。でも「だからお預け」と

いうのはちょっとなあ・・・と思っていました。なぜなら私の場合音楽は趣味であって趣味ではない、生活の一部、

体の一部みたいなものですから。で、無い頭でいろいろ考えているうちに思ったことは、「それって結局逃げてる

だけなんじゃないのか?」ということでした。

 もちろん、絶対的な時間は少なくなるでしょう。だから今までと同じ時間は割けないと思います。だからといって

お預け、というのは、どうかな、と思います。複数の団体に所属するのは不可能でも、全くの休業とまですることは

ないと思うのです。

「練習にとれる時間が少ないから、成果も不完全になる。自分はそれが不満だ。そんな本番を重ねるくらいならやら

ないほうがましだ。」うん、それはそれで一つの考え方でしょう。否定はしないけど、でも私自身にはその考えを

当てはめたくない。絶対的な時間の少なさのなかで、いかに効率良い練習をするか。それと共に、家事や育児の合

間、仕事の合間にできる練習(というよりトレーニング)だってあるのだから、それをいかにしてサボらずにできる

か。これを自分に課せるかどうかではないかと思うのです。

 そしてもう一つ考えたこと。そうやって時間は削られるけれど、逆にそういう(音楽以外の)生活の中から得る

ことも沢山あるはず。まして、家事と違って育児なんて生まれて初めての経験で、しかも内容は子供の成長に合わ

せて日々変化していく。こんな体験から得たさまざまなことの中に、音楽に対するヒントが無いなんてことがある

わけがない。それを自分の持つ音楽に活かさないなんて、勿体無いじゃないか。

 ここまで書いていて気付きました。あ、まてよ、これって結婚する前にも考えてたことだよなあ・・・。  

 実は、最初のことは社会人になった時と、結婚前にも考えたことでした。(本当に今書いていて思い出したので

す) そして、2番目のことも結婚前に一度考えたことでした。

 2番目のことのうち、結婚前に考えたのは、レッスンでの島根先生の一言がきっかけでした。「君は何の為に、

何を伝えたくてviolinを弾いているの?」頭を殴られたような衝撃でした。それまでは、作曲家の書いた音楽を自分

なりに再創造してみたい、とか、少しでも多くの音楽に触れたい、あるいはもっと端的に、うまくなりたい、という

こと位しか考えていませんでした。私にとって楽器を弾く事はあまりに当たり前な生活の一部、人生の一部であっ

て、大事だとは思っていてもその意義なんて考えてみたこともなかったのです。

 先生は続けました。「君の生活の中で得た事を音楽に応用したり、音楽で得た事を生活に応用したりすると思う

けど、それをどうやって、聴いている人に伝えるか、ということが大事なのではないだろうか。そしてそれは、生き

ている事の素晴らしさを伝え、演奏を聴いた人が、人生って素晴らしい、とか、明日も頑張って生きていこう、と

思えるような演奏でなくてはならないと思う。」

 芸術ってどんなものでも、もともとは人生に潤いを与え、日々の疲れを癒し、新たな日々へ踏み出す活力となる

べくして生まれたものだったはず。少なくとも、今日まで愛され続けている原点はそこにある。それなら、逆に

生活の中からも応用できるものがあるはず。単純に「音楽を続けていればストレスを発散できる」というような

ことではなく、日々の生活も音楽も、どちらも同じくらい大事なもので、それは分かれているのではなくつながって

いるのだ。

 そう、人生何ごとも成さねば成らぬ、そして何事もどうにかなる。そう思って前向きに生きていかなきゃ。

書き散らかしその5:『誰がヴァイオリンを殺したか』書評  (2002.8.7)

  ※『誰がヴァイオリンを殺したか』石井宏著、新潮社、2002年3月20日発行、定価税別1,500円

 新聞のテレビ欄や週刊誌の広告を見ていると、「何じゃこりゃ!」というタイトルがしばしば

目に付きます。それらは粗方扇情的であったり事実と異なるか否かの境界線ぎりぎりの表現であり、

受け手である我々を下品で粗暴な空想の世界に巧みに誘い込んでいます。しかし実際に放送を観たり

雑誌を読んでみると実は大したことではなかったり、タイトルから想像される様な(そんな想像を

する方が悪いと言われればその通りなのだが)下品で粗暴な内容ではないことが多いのです。尤も、

私を含めこの手のものに慣れている人達からすれば、それを百も承知でタイトルと本編(本文)との

ギャップを楽しんだり、あるいはタイトルにいかに惑わされずに自分の興味ある話題に辿り着くかと

いう、一種のゲーム感覚で付き合っている部分があって、それは通販や実演販売といかにして互角に

渉りあえるかという駆け引きにも似ています。

 しかしこの本はそういった類のものではありません。悲観的で絶望的とすら思わせる結論は別と

しても、プロローグ、そして時代を追ってヴァイオリンが「死んで」いく、いや「殺されて」いく

さまを語るあたりは、真摯な歴史考証(事実考証、とでも言ったほうがより正確かもしれない)も

手伝って、説得力に溢れていますし、知的好奇心を刺激します。本の内容はタイトル負けなどして

いない、むしろそれ以上の衝撃度を持っています。

 著者がヴァイオリンを非常に愛しているであろうことは、第一章から第三章の中でヴァイオリンと

いう楽器の悪魔的な魅力を語っているくだりを読めばひしひしと伝わってきます。ただ、著者が愛し、

崇めるのは今は亡きヴァイオリン、即ち「バロック・ヴァイオリン」であり、いわゆる「モダン

(現代の)・ヴァイオリン」ではありません。もちろん著者も本文中いくつかの箇所でイザイ、

エルマン、クライスラーらの音(や演奏)はまだ良かったと回想しており、バロック・ヴァイオリン

以外はヴァイオリンではないという極端に固いアタマを持った人ではなさそうです。だがしかし、

第二章の中の『悪魔のトリル』に関する記述を読めば、著者の言う「生きて」輝かしさを

放っていたヴァイオリン、さらに言えば本来のヴァイオリンとは、近現代に音量増大の為に改良

(著者の主張に沿えば「改悪」ということになるが)される以前のヴァイオリンであり、そして

著者がその楽器にいかに恋慕の情を抱いているかが解ります。

 著者の主張するところに完全に寄り添って読み進めていくと、この本の展開はそのまま

ヴァイオリンが殺されていく歴史です。ヴァイオリンを愛する者の一人としては涙なくしては読め

ないといっても過言ではありません。また、ヴァイオリン以外にも、フルートが改良による

「恩恵」を受けたことについても「全く別の楽器になってしまった」と述べられていますから、

ヴァイオリン奏者ならずとも心に感ずるところのある人は多いのではないでしょうか。

 もちろん、そういう読み方をしなければ「だから何なの?」という感想を持たれる方も少なくない

でしょう。しかし、単なる時代考証・学術研究発表会としての価値しかない古楽器演奏がまだまだ多い

中で、古楽器演奏の本当の意義を力強く述べる著者の主張には耳を傾けるべきだと思いますし、

そうすれば自然に古楽器演奏に対する偏見がなくなり同時に私たちの古楽器演奏に対する真の批評力

(レベル)も向上していくことになると思います。また、著者が『悪魔のトリル』に関する記述の中で

紹介しているバロック・ヴァイオリン奏者マンゼの古楽器演奏に対する考え方は、モダン楽器

(ヴァイオリンに限らず)における演奏論にも通ずるものが多く含まれています。さらに、

パガニーニが現代ではその超絶技巧面ばかり強調されているが、実際に当時の人々を魅了したのはそれ

ばかりではなくむしろそれ以外の面があったからだという話や、「ヴァイオリンは死んだ」という主題

から最終章(第五章)では「古典音楽は死んだ」というところまで踏み込んでいるあたりは、ドイツ製の

音楽史観・音楽美学観にいつの間にか浸ってしまっている人(日本人の多くがそうだと思う)に邪心を

もたず素直な気持ちで読んでみて欲しいと思います。

 私は読み終えた後、「ではどうすればいいのか?」という問いを発せずにはいられませんでした。

今まで音楽表現という行為やその意義について悩んだことはあるし今でも悩み続けていますが、

演奏している楽器(具体的に自分の使っている楽器という意味ではなく、一般的存在としての楽器)に

ついて悩んだことはないからです。私が音楽表現に使っているヴァイオリンという楽器そのものが、

実はヴァイオリンとは似て非なる別の楽器なのだと言われてしまったら、いったいどうすればよいの

だろうかと。一つの楽器をある程度以上長い期間嗜んだ経験のない方に解り易く例えるとすれば、自分は

日本人だと思っていたのに実はインド人だったとか、自分は女だと思っていたのにある日突然男だったと

分かったというような事を想像して頂ければ、私の受けた衝撃度を理解して頂けるでしょう。「そうは

言っても私は私」つまり「いくら悩んでも今ある楽器しかないんだし、それで今まで楽しめたんだから、

これからも今まで通りで良いではないか」と思い直すしか道は無いのだろうけれど、そう簡単にはいかない

し、そんなふうに単純に割り切りたくないという気持ちもあります(読み終えた直後は、著者に

この問いかけの手紙を書こうと本気で考えていました)。

 今、私の中でおぼろげに浮かびつつある結論は、「『殺される』前のヴァイオリンの音と表現を、

現代の楽器で可能な限り追求する作業を、今までの練習と並行して行い、『殺された』ヴァイオリンの

音を常に頭の片隅に置きながら表現する」ということです。いかにも妥協の産物という感じですが、

それしか方法はあるまい、とも思います。なぜなら第一章の終わりで紹介されている、ヴァイオリン製作の

現代の名匠、リッカルド・ベルゴンツィの言葉にあるように、ヴァイオリンには「楽器個有の音色」はなく、

全てが「弾き手の音」なのですから・・・。

 なおこの他に、クレモナ製のオールド・ヴァイオリンについて語られてきた「ニスの秘密」という

話がいかに信用に値しないものであるかや、なぜそれらだけに破格の高値がつくのかということを

説得力溢れる文章で説明していたり、ヴァイオリンの本当の発明者はサローではなくアンドレア・

アマティ(有名なニコラ・アマティの祖父にあたる人)であることなど、上述の主題以外の部分でも

興味深い話の多い、音楽書としてだけでなく他ジャンルまで含めたノン・フィクションとしての価値も

非常に高い秀作であると言えるでしょう。


書き散らかしその6:アマオケは「人」次第  (2002.10.29)

 最近、といってもここ4〜5年のことだが、私はタイトルに掲げた言葉を意識させられることが非常に

多い。そう、私が「ピアチェーレ室内合奏団」も含めいろんな団体に出たり出なかったりする基準は全て

これだと言っても良いだろう。もちろんそれが全てではなく、同じくらい重要な理由もある。それはもち

ろん「音楽上の理由」。私だけでなくアマチュアオーケストラに参加している人全てに多かれ少なかれ

言えることであるはずだ。しかし「人」つまり「仲間との相性」は音楽上の理由あるいは地理的・時間的な

理由と違って【最大の理由】にはなれずとも【最終的な決め手】となり得るのだ。どういうことかというと、

例えば「音楽やっている上ではすごく心地いいのだけれど、どうも雰囲気になじめなくて参加できない。」

という論理は成立しても、その逆、つまり「雰囲気は悪いしウマの合わない人ばっかりなんだけど、音楽

やるには最高の環境だから参加してるよ。」という論理は、ほとんど成立しないのである。まず98%以上

でしょう。少なくとも私の周りにはいない。いたとしても実はその人自身が雰囲気を悪くしている人じゃ

ないか(=自分が気づいていないだけで)と思うほどだ。

 そう書くと、必ずといっていいほど反論として出される材料に、「あるプロオケ奏者の言葉」という類の

談話がある。「ある・・・」といっても特定の言葉ではなく、よく聞かれるという意味です、念のため。で、

その言葉曰く、「普段は仲が悪いんだけど、音楽をやるときはぴたっと合うんだ」あるいは「いい音楽が

出来ている時は、普段仲が悪いことも忘れて、同じ方向を向いて音楽が出来たことに感動して、ものすごい

一体感を感じることが出来るんだ」。

 当たり前だ。

 プロなんだから合わせられて当然、ということももちろんあるが、今私が言いたいのはそういうことでは

ない。

 プロオケには、オーディションがある。

 オーディションでは、受験者の技量はもとより、音楽性も試験される。その基準はもちろん、「我がオケで

弾くにふさわしいか」である。だから、必然的に音楽上似通った奏者が集まることになるわけで、そういう

人達が仮にプライベートで仲が最悪でも、一度音楽が始まれば息が合うのは当然なのだ。

 さらに彼らはプロである。それでメシ食ってる人たちである。仲が悪かろうがなんだろうが、仕事となれば

きちんとこなす。それが職業意識、プロ意識というものだ。

 考えてもみて頂きたい。我々アマチュアだって、本来の職場にあってはプロである。ウマが合わないからって、

社内の人から仕事を頼まれてもやらないなんてこと、しないでしょう?仕事の質に多少の影響はあるかもしれ

ないが(笑)、それもお金をもらえる範囲内でのことで、そこから逸脱したら単なる背任行為だ。

 もちろん、フリーの場合や、仕事そのものに起因した仲の悪さ(というより信頼感の欠如)なら話は別だが、

それならば他の人に頼むなり、何か別の方法を考えるだろう。

 つまり先程のプロの話は非常に高いレベル=プロとしての最低限の「仕事」の範囲内での話であって、その

範囲から逸脱するようなレベルの話ではないのだ。そんな話をアマチュアに当てはめようとする方が間違いだ。

 それにアマチュアはプロとは違う。まず、音楽上似通った奏者を集めるということ自体、アマオケにとって

ゼイタクかつゴーマンなことなのである。例外であるいくつかのオケ、つまりアマオケ最高峰を目指すべく

厳しい規律を設け、空きが出来たらオーディションを実施して団員を募集してるオケだとか、指揮者のなにがし

先生の音楽に共感してできたオケ、なんかを除いて。

 大多数のアマオケは、結びつきの要因が音楽とは違うところにある。なんとか大学の卒業生とか、ほにゃ

らら市の市民だとか。言ってみれば(選挙で言うところの)地盤・看板だ。さすがに鞄はないけど。

 それ以外で結びついているアマオケもあることはある。特定の作曲家や時代の音楽しかやらないオケだとか、

母体はソコソコ大学の卒業生だけどいつのまにか乗っ取られて訳わかんなくなっちゃったオケだとか。でもそう

いうオケだって比重でみてみると結局は音楽よりも人なのだ。単に仲の良い悪いではなく、メンバーが音楽に

取り組む姿勢が似通っているとかも含めて。

 もちろん、メンバーの仲が最高に良いとしても、セミプロ級の人が初心者しかいないオケで続けていけるかと

いったら、それは難しいだろうと思う。でもそれだって、仲が良いならなおさら、急に辞めるのではなく何とか

して音楽上も良くしようと試みた上で人間関係がギクシャクしはじめ、それから辞めるか辞めさせられるかと

いうことになるはずである。いくら結局は人だといっても音楽やるために集まってるのだから、それは当然の

成り行きであろう。

 話を戻すと、アマチュアは音楽をやってて楽しくなければもちろんだめだが、それと同じくらい、あるいは

それ以上に、人同士の理解・交流・結びつき等がなければ、「参加していて楽しい」とはならないのだ。また、

アマチュアで音楽をやる意味もそこにあると思う。もちろん人それぞれ、またオケそれぞれにそのバランスが

違っていて、そこから悲劇も起こるのだけれど、逆にアマチュアならではの心のこもった(あるいは熱の

こもった)演奏、と評される演奏もまた、そこから生まれるのだろうと思うのである。

 そして、会社なら人間関係を理由に職場を移ることはそうそうできないし、程度にもよるがそれで職場を

変わるのは会社の選び方を間違った方も悪いのだとも思う。しかしアマオケなら、言うまでも無く趣味なのだ

から辞めようと思えば辞められる。だから結局のところ「アマオケは『人』次第」なのである。

書き散らかしその7:「表現すること」とは?  (2003.8.17)

 つい先日、あるラジオ番組でいとうせいこう氏が、人生を変えた一言として「『表現したい』、なんて卑しい

言葉なんだ」という言葉を挙げていた。説明はこうである。この言葉はある老紳士(歌舞伎を研究している人だ

そうだ)のもので、「僕は今度の舞台でこんな風に表現したい」というようなことをある演出家が雑誌で述べて

いたのを読んで発した言葉だそうだ。そして、上述の言葉に続いて「踊りたくなったから踊った、それがそのまま

見せられればいいのにね」と続けたそうである。いとう氏はこの言葉に衝撃を受け、以来演出に対する考え方が

180度変わったそうで、氏が演出においてアドリブを多用するのはこの体験があったからだと述べていた。

 私も少なからず衝撃を受けた。そして考えた。「表現=卑しい」か・・・。

 私の勝手な理解だけれど、歌舞伎というのはおそらく全ての台詞が決められていて、その上所作については

「型」というものもある。それらが能や狂言と同様、世襲と口伝で受け継がれていくわけだ。つまり、歌舞伎と

いう芸術の中のかなりの部分を決め事が占めていて、演じ手の考えが入り込む隙間は非常に限られてくる。そし

て、その僅かな隙間でどう「自分」を出していくかという要素が、決め事を正確に再現するということと同様

あるいはそれ以上に重要なことである。これって、ヨーロッパ古典音楽の世界と良く似ているではないか。違う

のは世襲と口伝の部分くらいだ。クラシック音楽の世界も、有形無形さまざまの決まりがある。歌舞伎に比べれば

ゆるやかかもしれないが、それにしたって大抵のことは既に多くの先達によってやり尽くされた感がある。楽譜が

全てではないといったって、時代様式や楽曲様式によるルール、あるいは奏法上のルールなどがあり、ある程度

範囲は限られる。だからこそ尚更、その限られた範囲で演奏者としてのオリジナリティーを出すべく表現力を磨き、

主張する。歌舞伎はともかくクラシックの世界ではそういうことになっていた、と私は思う。

 そこへもってきて「表現=卑しい」である。まいったなあ。どうすりゃいいのか。

 しかし、打破するヒントはその言葉の続きだろう。「踊りたくなったから踊った、それがそのまま見せられれば

いい」、つまりあたかも自然な感情の発露として演じ手が動き、語るということが理想だということだ。この言葉を

発した老紳士が言う「表現」とはおそらくその正反対のこと、つまりおそらくは演じ手が演目を借りて自己主張する

こと、あるいはそう見えるような演出のことを指すのだろう。

 そう考えれば合点がゆく。考えてみればクラシックにも「作曲家の顔が見える演奏」と「演奏者の顔が見える

演奏」という表現がある。多くの場合後者は批判的な意味で使われるけれども、前者だって「没個性的」とか「既出

表現の焼き直し」などという否定的な表現にも変化する、ある意味便利(?)な言葉だ。さっき「そういうことに

なっていた」と過去形で書いたが、それは現代は「演奏者の顔が見える演奏」の方が多いような気がするからだ。

(まあ昔だって例外はあったのだろうが・・・)

 さて、それでは私はどちらを目指すべきなのか?非常に難しい問題だし、悲しいことにそのどちらかを自由に選択

出来るほどの技術も持ち合わせていないのだが、あえて選ぶとしたら前者を選びたいと思う。「いい演奏だったね」

ではなく「いい音楽だったね」と言われたら、たぶん成功なんじゃないだろうか。演奏している間は自分という

存在がお客さんの頭からなくなること。いってみれば恐山のイタコの口寄せで、死者がイタコの口を借りて話して

いる、という状態と同じだ(言うまでもないがイタコ=演奏者、話していること=音楽、依頼者=聴衆である)。

突拍子もない例えかもしれないが、それ位自分の存在が隠せること(「消せる」ではなく!)こそ、実は非常に

高度で、難しいことなんじゃないだろうか。しかもそこにちょっとだけ自分なりのもの-それこそ「隠し味」-が

入れられたら、最高なんだと思う。きっと、イタコさんによって口寄せの仕方なんかが(同じ死者を呼ぶのでも)

違ったりするんだろうし。

 その意味で「演奏者の顔が見える」のなら、それは顔が見えるというよりは匂いがする、という程度なんだろう

から、それはそれでいいのではないだろうか、という気がする。そんなことを考えたのでありました。

書き散らかしその8:音楽の流れに乗るという意識  (2003.11.11)

 唐突だが、先日インターネットでスポーツニュースを読んでいて2つの印象深い言葉を見つけた。

  ・星野仙一氏(前阪神タイガース監督)「試合に入っとれよ」

   ・・・先発メンバーから外れ、ベンチで待機している選手に対して、よくこう言っていたそうだ。グラウンド

   に立っていなくとも意識の上で試合に参加していれば、いつ代打の声がかかったとしても、どんなバッティン

   グをすればよいかがわかり、試合を壊すことがない。だからチャンスに強いチームが出来上がる。今年、先行

   されても逆転して勝ち続けたあの強さの秘密は、こんなところにもあったのだろう。

  ・松井秀喜選手(NYヤンキース外野手)「意識を常に試合に集中していれば、自分の持つ最高の能力を発揮出来

   る」

   ・・・松井選手がまだ巨人にいた頃、ヤンキースのスカウト担当者が味方の攻撃時に(自分の打順でない時

   に)ベンチにいる松井選手に注目していたら、常に相手バッテリーの攻め方や外野手の動きを観察していた

   そうで、その様な試合に対しての集中力、意識の高さに驚いたそうである。私も、松井選手が試合中にベン

   チで談笑している様子を殆ど見たことがない。その理由は単に真面目だからということだけでなくこんなとこ

   ろにあったのだ。相手投手の配球はともかく、野手の動きまで観察しているとは思わなかったが。ともかく、

   そうやって意識を常に研ぎすませているからこそ、彼が持つ技術や身体能力の高さだけではなく走攻守全ての

   面における状況判断の的確さが発揮され、それが大リーグでも高く評価されたのだと思う。

 これら二つの言葉に共通することは、試合の一部(自分の出番)ではなく全体に対しての意識レベルを高く保つと

いうことであるが、なぜこれが印象に残ったかというと、彼等のプロ意識の高さに感銘を受けたのはもちろんだが、

それ以上に、このことが音楽とも共通していると感じたからだ。つまり、音楽で言えば、音楽の流れに乗って弾くこ

と、あるいは流れの中で弾くこと、ということだろうと思う。星野さん式に言えば、「(休符の時も)音楽に入って

いなさい」ということだろうし、松井選手風に言えば「意識を常に音楽の流れに集中していれば、自分のもつ最高の

音楽的能力を発揮出来る」ということになろうか。

 オーケストラの曲というのは、弦楽器が集団でベースとなる音を作り、その上に様々な管楽器が乗って色彩をつけ

たり、打楽器と共に音の輪郭を固めたり、楔を入れたりするというのが基本の作りになっている。特に楔のほうは音

楽のポイントとなる部分で出てくることが多いから、その演奏に問題があると、どうも音楽がしまらなくなってしま

うのだ。そういう役割分担だから、アマチュアであっても管・打楽器は指揮者や聴衆の容赦無い批評の対象となり

易いのだが、問題はそれ(「色彩付け」や「楔入れ」)がうまくいかないのはなぜかということだ。アマチュアだか

ら、と簡単には片付けられない。なぜなら技術的に申し分のない人がオケに入るととたんに音楽を壊す・・・とまで

はいかなくても、浮いてしまうというケースが多いからだ。

 私は、結局のところそういう人には「音楽の流れに乗る」という意識が足りないのではないか、と思っている。

「(休符の間も)常に音楽の流れに乗っていれば、最適な音が演奏出来る」とも言えよう。「休符も音楽の一部」

とはよく言ったものだと思う。オケの場合、室内楽と比べて管楽器の「休み時間」は多くなる。そういう時に

本当に「休んで」しまうと、再び出番がやてきた時には音楽の流れが変わっていて、うまく合流出来ない、という

ことなのではないだろうか。そういうことが、具体的にアインザッツのずれなどの形になって現れてくることも

あるだろう。音楽の流れに乗る、と言葉で書くのは簡単だが、言葉では説明しにくいものが含まれているから

厄介だ。

 ともかく、音楽全体の構造を把握して頭に入れて臨み、そして音楽の流れに「入って」いれば、最も相応しい

音と表現で演奏出来るはずだと思う。

 ただ、ここで忘れてはならないのは、実は音符の多い弦楽器においても、その中で変化する役割に対応するには

同じ意識が必要だということだ。伴奏音型から旋律に変わる場合(あるいはその逆)などはまさにそうだ。いや、

そもそも管とか弦とかいう以前に、皆が一つの同じ音楽を作り上げる課程において全員が曲の最初から最後まで持ち

続けていなければならない意識なのではないかと思う。本当は、その意識を共有化し、イメージを近付ける作業

こそがリハーサルなのだろう。実際にはそこまで辿り着く前に本番が来てしまうのだけれど・・・。

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