医療過誤裁判 私の場合 原告 長男 陳述書 1
最終更新日: 2002年09月16日、 アクセスした日: 12月14日

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1999年 11月 11日
甲第 25号証 原告 長男 陳述書 1

私は、亡くなった●●●●の長男です。

1. 父の思い出

子どものころ、父は私とよくキャッチポールをして、遊んでくれました。 私が高校で野球をやっていたころも、よく試合を見に来てくれました。 高校1年生のとき、父が初めて見に来てくれたときに打ったライト前のヒットを 「いい当りだったね」 と誉めてくれ、とても嬉しかったことを打球の手応えとともに今でも覚えています。

中学までは母が私の教育係でしたが、高校に入ってからは父が私の教育係になりました。 父親がPTAの集会等に参加する例は珍しく、私の友人の母にうらやましがられ、私はそれが自慢でした。 大学に入り、家を離れ、●●で下宿していたころ、あと半年で卒業というときに下宿の大家さんとトラブルが発生したときにも、父がひとりで●●まで来てくれました。

私は、高校卒業後家を離れ、独身時代は年に2〜3度くらいしか帰省しない状態でした。 なので、 「親孝行する機会をできるだけ作ろう」 と心がけていました。 とは言っても父が現役のころは父の仕事が忙しく、なかなか親孝行の機会を作ることができませんでした。

父は昭和一桁生まれの典型的な会社人間でした。 年次休暇を取らず、一所懸命働きました。 父は根っからの製鉄マンで、父の世代が今ある日本の土台を作ったことに誇りを持っていました。 製鉄業が構造不況に陥ってからは、製鉄の工程を合理化するプロジェクトに携わり、とても忙しい時期があり、そのころ肝炎を発症したのです。

父が55歳になったときに、●●商会●●営業所に営業所長として出向しました。 父の働きが認められたのか、●●商会にはとても厚い好意をいただき、出向期限が切れたときも、期間の延長の申し入れがあったのですが、父は、他の出向者に配慮してか、その申し入れを辞退しました。 父は、自分の意志を貫く頑固なところがありましたが、自分より他人を思いやるやさしい人でした。

父が定年となった1992年、私は米国●●●●●●●●州に妻と住んでいましたので、父と母を呼び、10日間ほど一緒に生活し、旅行を楽しみました。 両親と同年代の隣人の米国人夫婦と仲良くなり、日本に帰ってからも手紙を私経由で交換していました。 父にとっても、よい思い出になったようで、テレビの上に飾ってあるナイアガラの滝の前で撮影した家族の写真を見ながら 「あの旅行は楽しかった。 康一ありがとう」 と話してくれました。

父の定年後は、一緒に小旅行をして楽しみました。 1994年9月には、父母と妻と4人で奥三河に1泊旅行に出かけました。 栗を拾ったり、夜中に散歩したり、落ち鮎を食べたりして、楽しかった。 1995年3月には、私の新居のお披露目に妻の家族とともに父母を呼び、楽しく昼食会をしました。 父は、私が●●●に家(といっても分譲マンションですが)を持って主となったことを非常に喜んでくれました。 父母に、3泊ほどしてもらい、ゆっくりしてもらったのですが、私の家ですごしたのが、父にとってそのときが、最初で最後になってしまうとは、考えてもみませんでした。

4月、父は多忙で、グラウンドゴルフで県大会に出かけたり、農協のゴルフ大会で優勝したりと、ふつうの人以上に健康な生活をしていました。 その父が手術によって突然亡くなるなんて、まるで悪夢を見ているようです。 これから親孝行して恩返ししていこうとしていたところなのに。

父は母に 「人生に思い残すところはないが、ただひとつ、●●に子どもがいないのがな」 と言っていたそうです。 父が母と鎌倉に旅行したとき、鎌倉の神社で私たち夫婦に子が授かるように願をかけていたようです。 その子が授かったことがわかったのは、父が亡くなって1週間後でした。 1996年●月●日、娘 ●●●が誕生しました。 予定より8日遅れて誕生した●月●日というのは父 ●●の語呂とも合い、不思議な因縁を感じます。 父に早紀子を見せたかった。 父が生きていたら、どんなに喜んでくれただろうか。

私たち家族から父を奪い、父の人生を奪った半田病院の杜撰な手術を私は憎んでいます。 そして、何もできなかった自分の無力さを一生嘆いて暮らすのです。

続く


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