医療過誤裁判 私の場合 原告 妻 陳述書 2
最終更新日: 2002年09月16日、 アクセスした日: 12月14日

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1999年 11月 10日
甲第 26号証 原告 妻 陳述書 2

2. 検査入院 (1995年 5月15日〜)

1995年 5月15日、主人は半田病院に2〜3日のつもりで検査入院しました。 その日は、●●●町民生委員協議会の研修旅行があり、特養老人ホームを訪問する予定の 2泊旅行がありましたので、キャンセルして病院へ同行すると言いましたら、主人は 「痛くて入院するわけではない。 すぐ帰るのだから大丈夫だ。 旅行へは行きなさい」 と申しました。 「では下着は新しいものをたくさん用意しとくね」 と、病院へ持っていく包みを作りました。 すると 「そんなにいらない。 すぐ帰るから」 と包みをほどいて 3枚ほどに自分で減らしました。 17日は帰宅後夜、病室で会う約束をして、私は旅行に出かけたのです。 17日夜、病院で会ったときはカテーテル検査をした後で、ベッドで安静に寝ていました。 主人は私が帰るときには 「寝てる間に動いては困るから手をベッドに縛っていってくれ」 と言いましたので、看護婦さんに紐をいただき、看護婦さんに縛ってもらいました。

5月20日昼食後帰宅し、22日の夜7時頃までに病院へ戻ると許可を得て、主人と私は甥の結婚式に東京へ出かけました。 20日朝の電話では少し熱が出ていると言ったので、 「キャンセルの電話を入れるから無理しないで」 と話しましたが 「昼間で様子を見るけどタクシーで戻るから出掛けられるように準備をしとけよ」 と言いました。 家では 「大丈夫 大丈夫」 と言いながら着替えをし出掛けました。

●●●から来る私の弟たちと逢えることを楽しみにしている様子でした。 若かった頃一緒に魚釣りに行ったことや、勤続30周年で●●●へ戻って友人と逢ったり、お世話になった先輩のことなどポツポツと話してました。

実は検査が入らなければ2人で今年は●●●旅行をする予定で母の残した家 (私たちが●●●から名古屋への転勤がなければ将来住むつもりで購入した土地に建てた家です) で2〜3ヵ月でもいてくるつもりでした。 釣り好きの友人で作った八人会という同期入社会もあり、皆さんから「是非来いよ」とお呼びがかかっていたのです。

日比谷公園で 「きれいなバラが咲いて、バックが良いよ。 ここで一緒に写真を撮ろう」 と主人が呼んでくれて、ベンチで笑いながら 2人で弟に撮ってもらった写真が遺影となりました。 悲しいことです。

5月24日リピオドールを入れて腫瘍の大きさを測ると H医師に聞いていました。 カテーテルで注入するように理解していました。 注入後 1週間で腫瘍周辺の毛細血管に薬が集まるとのことでした。 午後早い時間にカテーテルが終わっているはずでしたが、時間が順々に遅れて 4時頃病室に着いたときには 「今戻ったばかりだ」 と言ってまして、 「前日から何も食べていない。 水をくれ」 と言いましたが、看護婦さんから 「まだ早いから口をすすぐだけですよ」 と言われましたのに、看護婦さんの前で 2口もゴクゴクと飲み下しました。 「アラ、体に障ると大変だからもう少し経ってからね」 と引っ込めました。 病院の検査が遅れたために夕食が抜きになり、丸一日絶食になったにもかかわらず、主人はひとことも不満を漏らしませんでした。

翌朝 7時頃ナースセンターをすり抜けて病室に入ると、主人が驚きながらも 「よく来たな」 と言い 「朝ご飯 1人で食べられないと思って友達に乗せてきてもらったの」 と言うと、喜んで口元へ運ぶのももどかしげに食事を食べさすことができました。 手術がすめば、そのように介護してあげられると思ってましたのに。 私が食事を口元まで運んだのは生涯たった一度その時だけでした。 主人の母が●●で倒れたときは病院へ泊り込んで退院するまで 2週間くらい世話をしましたのに……。 私の父や母の看病も十分させてもらいました。 それなのに、一番近くに暮らした主人の看病はなぜ十分できなかったのでしょうか。 私の母が入院していた病院は半田病院と同じ完全看護でしたが、家族の宿泊施設がありずっと付き添うことが可能でした。 ところが半田病院には家族が座る椅子さえありませんでした。

続く


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